・当地は中世、小幡郷と呼ばれ、烟田文書によると正元二年、弘長二年、建治三年、弘安八年に小幡郷の名が記されており、元正二年には行方十郎房静寛が行方郡小幡郷大和田村を買い取ったとされます。
関東下知状案(鹿島神宮文書)には嘉元四年十二月二十日に「小幡郷地頭六郎太郎幹知」と記されています。
沙弥信崇譲状案(烟田文書)によると延元元年二十日に行方氏である沙弥信崇が子供の平幹胤に当地を譲与した事が記されており、鎌倉時代の小幡郷は行方氏一族が支配し、当地には居館規模の館が築かれていたと推定されています。
「北浦町史」によると寛正5年に玉造四郎正重の一族の六郎正忠が地頭として入部し、「小幡」姓を掲げたとされます。
玉造氏は常陸大掾氏一族で行方氏の祖とされる行方宗幹の四男である幹政が玉造郷を与えられ、地名に因み「玉造」姓を掲げたのが始まりとされ、後裔は行方四頭と呼ばれ、重きを成しました。
詳細は判りませんが、その後は小幡氏一族が城主を歴任したようで、天正6年には小幡正幹が佐竹勢に敗れたとされます。
天正6年には小田原北条氏の常陸国侵攻を受け、佐竹氏を中心に常陸小川岱で大きな戦が発生しており、小幡勢は北条氏方に与したのかも知れません。
天正19年に当寺の城主小幡太郎正辰は佐竹氏の家臣である下河辺・荷我部氏によって敗れた為、小幡氏は城主格からは没落し、小幡城も廃城になったと思われます。
小幡城は山田川右岸の行方台地の中間に位置し、比高約22m、城域は湮滅が激しく不明な部分も多いものの大凡南北約800m、東西約520mの大城郭だったとされます。
現在の観音寺本堂付近の平場が周囲より若干高く「舘の内」と呼ばれる地名である事から本丸と推定され、北側の要小学校跡地が二之丸、南側の観音堂や山門がある平場が三之丸と推定されます。
本丸から見た北東の台地は現在、畑地になっているものの、「古屋」と「古屋下」の地名、二之丸北側の集落内に土塁と思われます土盛や堀跡の残欠、三之丸西側斜面に城郭の遺構が見られます。
その他にも観音寺本堂と小学校跡地の間や山門周辺に土塁の跡、境内と北東の畑地には櫓台と思われる地形が残されています。
観音寺の長い参道は「観音寺馬場」と呼ばれ、茨城百景に数えられ、馬場付近の土塁跡と思われる土盛にはかつて三本松と呼ばれる松の巨木があり、小幡城庭木とも大手の松とも云われています。
又、小幡城の城址に境内を構える観音寺は文応元年に当時の地頭である小幡大炊助平相正が忍性を招いて真言律宗の寺院として再興されたとの由緒を伝えている事から小幡氏との関係性が窺えます。
茨城県:城郭・再生リスト
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