・藤沢城が何時頃築かれたのかは判りませんが、南北朝時代には既に存在していたとされます。
一説には元弘元年に後醍醐天皇を中心とする鎌倉幕府の討幕運動を画策し幕府方に露呈した「元弘の変」に連座した藤原藤房が当地に配流となったとされる事から、軟禁場所として小規模な屋敷(館)があった可能性があります。
藤房は元弘3年/正慶2年に小田治久を伴って上洛し、復官を果たしましたが、藤沢城の「播磨郭」には万里小路(藤原)藤房の遺髪塚が設けられています。
軍記物とされる「関八州古戦録」や「小田天庵記」、「東国闘戦見聞私記」等には小田氏の居城である小田城の有力な支城として位置付けられ、敵方の侵攻により小田城を放棄した際には藤沢城に退避する場面が度々記されています。
一方、永禄7年に越後上杉家によって記録された「小田味方地利覚書」には小田氏の主要な城を列挙される中、藤沢城の記載が無く謎とされます。
江戸時代中期の著述家の戸部一閑斎が筆した「戸部一閑覚書」によると、永禄12年に発生した佐竹勢と小田勢の争いである「手這坂合戦」で敗北した小田勢1千余りは藤沢城に立て籠もり籠城戦を展開、佐竹方の真壁隊が追撃したものの落城に至らず、50騎余討ち取られ撤退を余儀なくされたと記されています。
吉備雑書抄書には「正十三乙酉九月二日己亥日、藤原鍬立日、羽房宿、九月二日ヨリ」、「再興鍬立藤沢城次年正月二十四日御移被成候」と記されています。
「筑波郷士史」と「胤信軍記」によると天正11年、小田氏治は既に本城だった小田城を退去し土浦城に遷っており孫にあたる金寿丸を佐竹方に人質として差出降伏したと記されており、天正13年の藤沢城の再興は、佐竹氏から復権が認められたとも、氏治が佐竹氏方から奪還したとも考えられています。
その後も佐竹勢との小競り合いが続き、天正16年には佐竹勢3千騎と小田勢1千騎が激突する手子生城に退去し、藤沢城は佐竹方の真壁氏幹に攻められています。
天正18年、氏治は小田城の奪還を画策し樋ノ口に軍を進め、佐竹方の梶尾景国、梶尾資胤兄弟と対峙しました。
所謂、「樋ノ口の戦い」で、当初は小田勢が優位に展開したようですが、太田資正が援軍に駆け付けた為、形勢が膠着状態となり、小田城の奪回は出来ず小田勢は手子生城、又は藤沢城に撤兵したとされます。
結局、小田氏は小田原の役で豊臣方に参陣出来なかった事から改易となり藤沢城も廃城となったと思われます。
上記の話以外にも藤沢城は度々、小田城の詰め城のような役割として利用されていたようですが、多くが軍記物の記述の為、詳細は良く判っていないようです。
藤沢城は東西約900m、南北約700mと中世の平城クラスとしてはかなり広大な城域を有しています。「城内」が主郭と思われる所で、三方が断崖、残る北側には堀が設けられていたようです。
「城内」の西側は「播磨郭」、北西には「田土部郭」、谷地を挟んだ東側には「中城」と「池の台」、北側には「下宿」と呼ばれる郭があったようです。
現在は宅地化した為、多くのの遺構は失われましたが、僅かに土塁や空堀の一部が残されています。
茨城県:城郭・再生リスト
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