・松岡陣屋は正保3年に水戸藩の附家老だった中山信政が当地に本拠地を遷した際、旧松岡城の麓に設けられた郭の跡に領内支配の統治拠点として整備されました。
中山家は武蔵国入間郡を本貫とする武蔵七党の一つで、戦国時代には小田原北条氏に従い、天正18年に発生した小田原の役では、北条方の八王子城に入り、豊臣勢に対峙したものの程なく八王子城は落城、当時の当主だった中山家範も討死しています。
家範の次男だった中山信吉は八條流馬術の名手だった事もあり徳川家康の小姓役として召し抱えられています。
慶長12年に家康の11男である徳川頼房が常陸国下妻領10万石で配されると信吉は頼房の附家老に抜擢され常陸国真壁郡内等6千5百石の知行が安堵されています。
慶長14年に頼房が水戸藩主に就任すると信吉は引き続き附家老を担い、1万5千石に加増、さらに元和8年に常陸国松岡領が加えられ合計2万石となっています。
跡を継いだ中山信政も引き続き頼房の附家老を務め、正保3年に本拠地を松岡に遷し、領内の政庁として松岡陣屋を整備しています。
中山家は水戸藩徳川家の家臣でありながら2万石を知行し、諸侯に準じる家格を有したものの、領地はあくまでも水戸藩の一部と見做された為、幕府からは正式な藩とは認められていませんでした。
宝永4年に6代当主中山信敏が5千石が加増され、合計2万5千石になると管理下にあった太田御殿(茨城県常陸太田市)に本拠地を遷した為、松岡陣屋は衰微したようです。
享和3年に10代当主中山信敬が再び松岡陣屋に本拠地を遷した為、陣屋の再整備を行っています。
万延元年に13代当主中山信富は松岡陣屋の敷地内に松岡文武稽古場を創設、学校名は「誌経」の「日就月将(たゆまず毎日努力すればやがて成果が出る)」から引用し、「就将館」と名付けられています。
14代当主中山信微は江戸時代末期の混乱する水戸藩政を支え、朝廷や幕府の命を受け、水戸藩の保守・門閥派だった諸生党の対応に追われました。
慶応4年に新政府の特旨によって信微は諸侯として認められ常陸松岡藩が立藩、初代藩主に就任しています。
明治2年に版籍奉還が行われると信微は松岡知藩事に就任、さらに明治4年に廃藩置県が施行されると松岡県が成立し松岡陣屋は引き続き松岡県庁舎として利用されています。
しかし、僅か数ヵ月後に松岡県は茨城県に併合された為、松岡県庁も廃されています。
現在は松岡小学校の敷地の他、民家や農地、公園等に利用され、土塁や堀等が再現され、陣屋町には茅葺の長屋門が残されています。
茨城県:城郭・再生リスト
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