・海老ヶ島城は寛正2年に結城成朝が築城を開始し、応仁元年に竣工すると嫡男の秀千代を配したとされます。
秀千代が城主になったのは僅か10歳とされ、後に地名に因み「海老原」姓を掲げ海老原輝明を名乗りました。
海老原家は俊朝、俊元と三代続きましたが、天文15年に小田方に属した宍戸城の城主宍戸通網に襲撃され落城、海老原家は没落しています。
宍戸氏は佐竹氏に転じた事もあり、海老ヶ島城は小田家の家臣である平塚山城守長信が配されています。
弘治2年に小田原北条氏の助力を得た結城政勝が小田氏の本拠地である小田城の攻略拠点とする為に海老ヶ島城を襲撃、小田氏治も2千の兵を率いて海老ヶ島表まで軍を進め決戦に臨んだものの敗北を喫しています。
政勝は余勢をかって小田城にも侵攻、多くの将兵は海老ヶ島に出撃し大きな痛手を被っていた事から程なく落城し、帰還出来なかった氏治は土浦城に落ち延びています。
しかし、弘治4年には記録上大きな変動がないにも関わらず既に小田方に回復しており、海老ヶ島城には再度、平塚長信が配されています。
永禄2年、結城政勝が死去すると、嫡男の明朝も既に没していた事から家督相続に混乱が生じ、その間隙を突いて小田氏治は結城領に侵攻し、結城城を攻め立てましたが、結城家の跡を継いだ結城晴朝の実家である小山高朝の援軍により敗北を喫し、海老ヶ島城も落城、平塚長信も倉持村で討死しています。
永禄3年に氏治は佐竹氏と宇都宮氏の協力を得て、再度結城領に侵攻、結城晴朝は結城城に立て籠もり、何とか猛攻を絶え凌ぎ、和議が成立したものの海老ヶ島城は小田方の戻され、長持の跡を継いだ平塚刑部大輔が配されています。
しかし、永禄5年に氏治は小田原北条氏に転じた為、越後上杉方の佐竹氏や宇都宮氏と敵対するようになり、永禄12年には佐竹氏方の大軍が海老ヶ島城に襲来、平塚大輔は降伏しています。
その後は佐竹氏に従った宍戸義長に与えられ、義長の城代として弟の外記が配されると、外記は海老ヶ島左衛門に改名、領地と城下町が整備されています。
文禄元年に義長が本拠地だった宍戸城から当地に移封になった事から名実共に海老ヶ島城の城主となっています。
しかし、慶長5年に発生した関ヶ原の戦いで佐竹氏は東西中立を選択した事を咎められ、慶長7年に久保田藩に減封、宍戸氏も随行しています。
その後は水戸藩に属したと思われますが、元和元年に施行された一国一城令により廃城、破却されています。
海老ヶ島城は小貝川城と桜川支流の観音川に挟まれる平城で、両川の氾濫等で形成された湿地が城を取り囲み天然の外堀に見立ています。総面積は12haと高大で現在ある集落がすっぽりと収まる程の規模を誇りました。
現在は宅地化と圃場整備により多くの遺構は失われましたが、所々に土塁や堀の一部が残されています。
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