守谷城

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守谷城:略データ
・場 所・茨城県守谷市本町
・築城年・伝:平安時代後期
・築城者・伝:平将門・伝:相馬師常
・城 主・円城寺氏・相馬氏・古河公方義氏・土岐定政・土岐定義
・構 造・崖端城
・文化財・守谷市指定史跡
・指定日・昭和48年9月8日
・概 要・守谷城が何時頃築かれたのぁは判りませんが、平将門が築いたとも云われています。

「平家物語」では平将門は「下総国相馬郡に住して八国を横領・・・」、「神皇正統記」では「下総国相馬郡に居所をしめ、都となずけ、みずから平親王と称し」と記されている事から、将門は相馬郡に本拠地としていたと考えられていたようです。

一方、別説によると鎌倉時代初期に千葉常胤の次男である相馬師常が築いたとも云われています。

相馬氏は桓武平氏良文流、又は良将流と云われ、平将門の後裔を自称し、千葉常胤の次男の師常が養子入りし相馬家を相続したとされ、鎌倉幕府初代将軍源頼朝から相馬御房の地頭職に任ぜられています。

守谷の地は同族である円城寺氏が配されていたようですが、応永年間に以降は相馬氏が城主を歴任したと見られ、大永5年に発給された「足利高基書状」には「相守因幡守(相馬守谷因幡守)」と記されています。

関八州古戦録によると天文6年に相馬氏が守谷を本拠地にしていた事が窺え、この頃に本格的な城郭へと拡張整備されたと推定されています。

戦国時代には小田原北条氏の軋轢を受け、上杉謙信の後ろ盾を得て何とか防いでいましたが、謙信が関東から撤退すると、北条方と和睦を余儀なくされ、その条件として守谷城が古河公方義氏に明け渡され、永禄9年には義氏の生母である芳春院周興が入城しています。

永禄11年には古河公方の御所として相応しい城郭へと拡張整備され現在見られる規模となっています。

天正18年に発生した小田原の役により相馬治胤は北条方に与し、小田原城に入って籠城戦に参陣した事から北条家が敗北し、小田原城が開城すると改易となっています。

代わって徳川家康の関東移封に従った土岐定政が1万石で入封し、慶長5年に発生した関ヶ原合戦でも東軍として行動し守谷藩を立藩しています。

跡を継いだ土岐定義は佐竹義宣が久保田藩移封後の水戸城の管理や幕政では大番頭に就任しています。

大坂の陣では徳川秀忠隊に従軍、江戸城の守備等で功績を挙げ、元和3年、高槻藩に2万石で加増移封になると守谷藩は廃藩、守谷城も廃城になったと思われます。

当地は天領となり代官により管理されましたが、元和5年に定義が死去すると嗣子の土岐頼行が幼少だった事から再び守谷の地に1万石で減封となっています。

ただし、藩庁の場所が不明な為、守谷城が利用されたかどうかも諸説あるようです。何れにしても寛永5年に頼行は上山藩に2万5千石で移封になった事からこの頃には完全に廃城となっています。

その後の守谷藩主となった堀田正俊と酒井忠挙は旧守谷城の「城内地区」に陣屋を構え藩庁としましたが、延宝4年に酒井氏が転封になると陣屋も廃止となっています。

守谷城は周辺を沼状の湿地帯に突き出た半島状の台地に築かれた天然の要害で本郭から六之郭で構成されています。

南側に大手口があり本郭と馬出には桝形と空堀、北側の馬出にも二重の堀切が設けられています。

現在も郭の形状や土塁、空堀、虎口、桝形虎口、橋跡、土橋の外櫓台等の以降が良く残され、守谷城址公園として知られています。

守谷城の城跡は貴重な事から守谷市指定史跡に指定され、茨城県百景に選定されています。

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