・太田城は天正19年に和歌城の城主多賀谷重経の長子である多賀谷三経が築いたとされます。
一方、「多賀谷家請」によると天正18年に多賀谷重経の命により家臣である赤松常範が築城したと記されています。
重経は形式上、結城城の城主である結城家の家臣でしたが、独立を図る為に豊臣家に接近し、長子の虎千代の元服の際には豊臣家の重臣である石田三成を烏帽子親を頼み、三成の「三」の字を賜ると、「三経」に改め、和歌城に配されています。
その後、重経は結城家の名跡を徳川家康の次男である結城秀康が継いだ事に反発し結城家を離反、佐竹家に転じました。
このごたごたにより三経は、当地に別家を起こして引き続き結城家の家臣として仕え、重経は佐竹義重の子供の宣家を婿養子として迎え、名跡を継がせています。
その後、三経は結城家から重要され、御普請与頭に抜擢されています。
慶長5年に発生した関ヶ原合戦では結城秀康に従い、西軍の上杉景勝の南下を防ぐ為に尽力しています。
慶長6年、結城秀康は越前国の国守として移封になると三経もこれに従い、家臣ながら諸侯並みの3万2千石で越前国柿原に配されています。
三経が当地を離れた事を受け、太田城は廃城になったと思われます。
一方、本家筋の多賀谷氏は、佐竹氏に同調し東西中立を保持した為、改易となり、半石以下に減石となった佐竹氏に従い久保田藩に遷り檜山に配されています。
太田城は東側に突き出た舌状台地の突端に位置し北側以外の三方が天然の堀が複雑に配されていました。
字「中城」が主郭とされ、西側に境内を構えている龍昌院が二之郭、主郭と二之郭の南側に三之郭、南側の突端に鎮座する愛宕神社の境内が出丸と推定されています。
愛宕神社は応永年間に開創されたと伝わる神社で、天正年間に多賀谷三経が太田城を築いた際、城の鎮守社として当地に遷座し篤く奉斎したとされます。
現在でも龍昌院や愛宕神社境内周辺には土塁や空堀等の遺構が見られ、民家の敷地にも土塁の遺構が点在しています。
茨城県:城郭・再生リスト
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