・飯塚城が何時頃築かれたのかは判りませんが、平国香の孫である大掾繁盛の五男五郎左衛門兼忠が当地に配された事から地名に因み「飯塚」姓を掲げ、居館を築いたのが始まりとされます。
市内に鎮座している耳守神社の由緒によると、飯塚兼忠の娘である千代姫は生まれながら耳が悪く、7歳になっても全く音が聞こえなかったそうです。
そこで、両親は日頃から信仰していた熊野大神に娘の耳が治るよう毎日祈願し、そして満願の日の朝、千代姫は奇跡的に聞こえるようになったとされます。
不思議な事に千代姫の聴力は人より優れ、その能力によって多くの領民を助けたそうです。
しかし、33歳の時に大病を患い、死の床に着くと、「私が死んだら、社を設けて祀って欲しい、きっと領民の耳の病に御利益があるでしょう。」との遺言を残しこの世を去りました。
両親は娘の遺言に従い愛用していた鏡を御神体とする耳守神社を創建し篤く奉斎したと伝えられています。
その後の飯塚氏の詳細は判りませんが、大掾家の一族衆として府中外郭の守りと地域開発に尽力し、当地で長く繁栄したとされます。
しかし、天正年間の末期頃に佐竹連合軍の襲撃を受け、飯塚城は攻略され、主家である大掾氏が滅亡すると、飯塚氏も命運を共にしたとされます。
一方、天正16年に江戸、佐竹連合軍が大掾氏領に侵攻した際、取手山の田木谷砦で大規模な攻防戦が行われ多くの戦死者が出た中で、飯塚氏も参陣し討死したとも云われています。
同年に佐竹義重が伊達家宛ての書状には「玉里と号する地近陣、手繋く取り扱いに及び、悉く押し詰め候」と記しており、田木谷峠跡からは多数の鉄炮の弾が発見され、激戦だった事が窺えます。
その後、飯塚城は利用された記録等ない事から廃城になったと思われます。
飯塚城は標高26m、比高16mの平山城で、大きく3つの郭が配され、最高所である西側の郭から、中央、東側と約5m程度毎に低くなっています。
周囲は2重の堀と、3重の土塁で囲っていたと推定され、現在も北、西、南側の三方の遺構が良く残され、東側は宅地として開発された為、欠損しているようです。
飯塚城の城址は貴重な事から小美玉市指定史跡に指定されています。
茨城県:城郭・再生リスト
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