・木原城が何時頃築かれたのかは判りませんが、近隣に境内を構え近藤家の菩提寺である永厳寺が応永元年に近藤民部正利貞が機堂長応和尚を招いて開創したとの由緒を伝えている事から、この頃(応永6年)に築城されたとの説があります。
一方、別説によると江戸崎城の城主でる土岐家に従った近藤利勝が伊佐部村の居城が焼失した為、永正元年に神越之城に遷り、永正3年に近藤義勝が城主に就任した際、地名を神越村から木原村に改めたとされます。
さらに別説によると、永禄5年に土岐治美が城を改修し、近藤義勝がその守備の為に配されたとされます。
木原城がある信太荘は鎌倉時代末期には幕府確執の北条氏一族が支配していたものの鎌倉幕府が崩壊し、南北朝時代になると南朝方に与した小田氏が席捲しています。
しかし、室町時代前期に小山義政が鎌倉公方足利氏満に対して反乱(小山義政の乱)を起こし、小田氏はそれに同調し義政方に与した為、敗北後は多くの所領が没収されています。
信太荘は山内上杉家に与えられ、上杉家に従った臼井氏、土岐原氏、大越氏、近藤氏が管理しています。
原師親の次男師秀の子供、左馬助秀成は関東管領上杉憲方に従った信太荘に入部し江戸土岐(原)氏そ祖となっている事から、近藤利貞は秀成に従い伊佐部村に配されたと思われます。
永厳寺もその城下に開創、永正元年に利勝が木原に本城を遷した際に現在地に遷ったのかも知れません。
又、当地は小田領と近接していた事から、一時、小田氏によって収奪され永禄5年に奪還、木原城を小田氏から守り切れるように拡張整備後に近藤氏を再び配したと思われます。
その後、土岐(原)氏は小田氏と友好な関係を持ちましたが、天正2年に小田氏の家臣で上条城の城主江戸崎監物が小田氏を寝返り佐竹氏に従属、翌、天正3年に木原城を強襲し、近藤氏は滅亡、木原城も落城したとされます。
土岐(原)氏は家臣の諸岡逸羽に命じて上条城を攻めさせると、江戸崎監物は自刃に追い込まれ、木原城も土岐(原)氏の管理下に置かれたと思われます。
天正11年に佐竹氏の一族である蘆名盛重等から襲撃を受け落城、その後、奪還したようですが、土岐氏は小田原北条氏に従った為、天正18年の小田原の役の際、豊臣家の臣従した佐竹義宣に攻められ落城、天正19年から蘆名盛重の管理下に置かれています。
慶長5年に発生した関ヶ原の戦いで佐竹義宣は東西中立を保った事から慶長6年に久保田藩に移封となり、盛重もそれに従い当地を後にしています。
慶長8年に青山忠成が1万石で入部すると江戸崎藩を立藩、元和6年に2代藩主青山忠俊が5万5千石で岩槻藩に転封になると丹羽長重が2万石で入封しますが、元和8年に3万石で棚倉藩になると江戸崎藩は廃藩となり、木原城も廃城になったと思われます。
木原城は霞ヶ関南岸に位置し、西端に配された本郭を起点に東側に向かって二之郭、三之郭と続き、三之郭には大手郭が隣接、南東には永厳寺が境内を構える寺郭がありました。
現在も大規模な土塁や堀の遺構等が残され、本丸跡地は木原城址城山公園として整備されています。
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