・茅根城が何時頃築かれたのかは判りませんが、鎌倉時代に茅根氏が居城として築いたと推定されています。
地名の文献的初見は鎌倉時代の弘安年間に記録された大田文で佐都東郡に「千根二丁」と記されています。
又、明応年間に佐竹氏の直轄領や直臣、一族重臣等の知行地である「当乱相違地」として「ちのね」と記されています。
茅根氏は鎮守府将軍藤原秀郷の康永とされると小野崎氏の庶流で、小野崎通長の次男である大和守通景が常陸国久慈郡茅根村に配された事から地名に因み「茅根」姓を掲げたのが始まりとされます。
通景は茅根城を築くと、城の北東方向に十二所神社を開創し、鬼門鎮守とすると篤く奉斎、その後は茅根氏の祈願所となり歴代城主が崇敬庇護しています。
茅根氏は小野崎家の家老や佐竹氏、江戸氏の家臣として活躍し、大橋城を居城にした一族もいるようです。
佐竹宗家に関東管領上杉家から義人が養子として入り家督を継ぐと、佐竹家の有力氏族である山入氏が反乱を起こし、小野崎氏は宗家方に与したものの、茅根氏は山入氏方に加担、その戦の際、茅根九郎三郎が討死しています。
その後、茅根氏本流は佐竹氏の直臣になったようで、戦国時代には佐竹義重の御家門衆として茅根兵庫の名前が見られ、大橋城を拠点とする一族として久慈郡西東組の中に茅根七郎太夫永楽30貫文大橋住と記録されています。
慶長5年に発生した関ヶ原の戦いで佐竹氏は東西中立を保持した事が咎められ、慶長7年に久保田藩に移封になった為、茅根氏は佐竹氏に従い秋田に随行した一族の他、帰農した一族、大甕神社(茨城県日立市)の神官になった一族、水戸藩に出仕した一族等に分かれ当地から四散した為、茅根城も廃城になったと思われます。
茅根城は里川東岸の河岸段丘に位置し、佐都小学校の跡地付近が城主の居館等が設けられ、その一段上の高台が主郭だったと推定されています。
基本的には城址は宅地と畑地、旧小学校敷地の造成等により多くの遺構が消滅している為、詳しい縄張り等は判らなくなっています。
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