布川城

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布川城:略データ
・場 所・茨城県北相馬郡利根町布川
・築城年・永正16年
・築城者・豊島紀伊守三郎兵衛頼継
・城 主・豊島氏
・構 造・平山城
・文化財・利根町指定史跡
・指定日・−
・概 要・布川城は永正16年に豊島紀伊守三郎兵衛頼継が築いたとされます。

一般的の豊島氏は平姓秩父氏の一族で、武蔵国豊嶋郡を本貫とした事から「豊嶋」姓を掲げ、平安時代から室町時代にかけて国人領主として長く豊嶋郡を支配しました。

文明10年に平塚城に立て籠もった豊嶋泰経が太田道灌に攻められ落城、落ち延びた小机城も落とされ、泰経は行方不明となり豊嶋宗家は没落しています。

布川城を築いた豊島頼継は上記の泰経の子供という位置付けで、豊嶋氏の再興を図る拠点として当城の築城に至ったとも云われています。

ただし、布川豊島氏の系図には齟齬が多く詳細は良く判っていないようです。

一方、永正13年に千葉家の家臣で、小弓源氏の当主である原胤隆の居城である小弓城が足利義明方に攻められ落城、胤隆は布川城に入り天文5年に当地で死去したとされ、胤隆の伝承が正しいとすると永正13年時点で既に布川城が存在していた事となります。

豊島氏と原氏は関係が深かったとも云われ、胤隆が入った事で手狭になり、永正16年に拡張整備が行われたのかも知れません。

野口如月筆の「北相馬郡志」によると寛元2年に摂津の豊島頼保が当地に入部し府川の地を開発したと記されており、こちらが正しければ、布川豊島氏は清和源氏頼親流宇野氏の支流で、摂津国豊島郡を本貫とした豊島氏出身で、鎌倉時代に入部した際に居館として設けていた可能性もあります。

その他にも南北朝時代の応安2年に豊島氏11代当主豊島佐兵衛尉頼貞が築いたとも云われています。

頼嗣は永禄3年に豊島家の菩提寺となる頼継寺(現在の来見寺)を創建、頼継寺への発給文書である「豊島頼継寄進状」には「印西之内」として「作屋之十五貫五百文」、「大森之内二貫八百文」と記されており、印西庄には豊島氏領と、原氏領が混在し関係性が窺えます。

来見寺が所有する「布川案内記」には紀伊守の領地として押付、横須賀の村々の他、川向印西にもあり高7千石だったと記されています。

印西庄小林に鎮座している鳥見神社の永禄11年の棟札には大檀那として千葉胤富、原胤晴、檀那として豊嶋新六郎の名が記されています。

頼継の後継と思われる豊島貞継は小田原北条氏に従い、天正10年代には布川衆として牛久城に在番、「常総軍記」によると天正13年に家臣の根本氏は岡見氏の家臣栗林氏、谷田部の遠藤氏等、600の兵で印西の千葉氏領に侵攻しています。

天正18年に発生した小田原の役の際、豊島貞継は北条氏方に与し、小田原城の籠城戦に参陣し、敗北後に北条氏直と共に高野山に入ったと伝えられています。

一方、貞継の弟である頼重は北条方の忍城の籠城戦に参加し討死したと伝えられています。

代わって、布川城には徳川家康に従った松平信一が常陸の佐竹氏に備えて5千石で配されています。

しかし、慶長5年に発生した関ヶ原の戦いで東西中立の佐竹義宣の動向に備える為、江戸崎に詰めていた功績により土浦藩3万5千石で移封になった為、布川城は廃城となっています。

徳満寺の境内が主郭、琴平神社の境内は西の馬出曲輪、利根町役場が二之丸、東側の住宅街が三之丸とされます。

現在も土塁と空堀の一部が残され、利根町指定史跡に指定されています。

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