・板橋城が何時頃築かれたのかは判りませんが、戦国時代には月岡氏が居城として利用していました。
月岡氏の出自は不詳ですが、小山氏の一族とも云われ、常陸国新治郡月岡村を本貫とした事から地名に因み「月岡」姓を掲げたとされます。
月岡氏は戦国時代になると岡見氏に従い、岡見氏の本城である牛久城の支城に当たる板橋城の城将として当地に配されたようです。
岡見氏は当初、主家である小田氏に従っていたものの、佐竹氏等の台頭により没落すると、小田原北条氏に転じ、天正年間に岡見治広が北条氏方に提出した「岡見氏本地行等覚書」によると、月岡城の城主として月岡上総介が記されています。
文化年間に当時の紀州藩士岡見久映が編纂した「岡見氏系図」によると天正8年に岡見宗治が行った矢田部城争奪戦に常州板橋城主月岡玄蕃が参陣した事が記されています。
その他にも「土岐・岡見一族旗下家臣等覚書」、「多賀谷家譜」等にも月岡玄蕃が板橋城主としての記載があります。
軍記物とされる「東国戦記実録」によると天正11年に多賀谷重経が家臣の白井善通に命じて板橋城を攻めさせました。
月岡玄蕃は城兵が少なかった事から降伏すると城を退去し、多賀谷氏の家臣青木治部、豊島日向が当地に配されています。
天正16年に牛久城主由良信重の侵攻を受け、青木治部、豊島日向、大山備前、河田出羽は激しく抵抗したものの落城、その後、城将達は由良家に従い多賀谷氏攻めに駆り出されています。
ただし、天正17年に月岡播磨守玄蕃允の菩提寺として開創された東光山永寿院の由緒によると、青木治部と豊島日向は月岡家の家臣とされ、由良家が牛久城の城主に就任するのは天正18年以降となる為、信憑性に疑問があります。
板橋城の廃城時期は判りませんが、天正年間か慶長7年に多賀谷氏が佐竹氏に従い久保田藩に遷った後と考えられます。
一方、月岡氏一族の一部は天正18年に下総国相馬郡守谷に入部した土岐頼行が上山藩に移封になると、それに従い、勝応の代には土岐家の家老に抜擢されています。
板橋城は比高10〜15m程の伊奈台地の先端に築かれた崖端城で、城域は東西約600m、南北約900m、三方が湿地帯に囲われていました。
大きく三郭で構成されそれぞれの郭は堀切と、空堀で分けられおり、南端には物見台が設けられ、北東隅が大手筋で桝形があったようです。
現在は城域が宅地化の為、多くの遺構が失われています。
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