・龍ヶ崎陣屋は慶長11年に幕府から仙台藩初代藩主伊達政宗に与えられた常陸国河内郡13ヵ村、信太郡13ヵ村合計1万石余りから構成される龍ヶ崎領を支配する為に設けられた仙台藩の出張陣屋です。
「常州龍ヶ崎陣屋絵図」によると龍ヶ崎陣屋には、御陣屋門、御代官門、根町入口御門等が配され、その外側の一部には龍ヶ崎城の外堀と思われる陣屋池と呼ばれる池を堀として見立ていたようです。
江戸時代末期に発生した戊辰戦争の際、仙台藩は奥羽越列藩同盟に参加し中心的な役割を果たしました。
龍ヶ崎陣屋に詰めていた藩士達は身の危険を感じ、陣屋を放棄した為、無人となった施設は打ち壊しとなっています。
仙台藩が新政府軍に敗れると、大きく石高を減じられ、龍ヶ崎領も取り上げられています。
明治4年に大綱藩知事だった米津政敏が分散していた羽前国と上総国の領地と同等の代地として常陸国河内郡龍ヶ崎村等6ヵ村が認められ、本拠地を龍ヶ崎に遷した為、龍ヶ崎藩を立藩しています。
米津政敏は長瀞藩4代藩主米津政明の長男として生まれ、慶応元年に政明の隠居に伴い家督を継ぎ、長瀞藩1万1千石5代藩主に就任しています。
戊辰戦争の際、政敏は江戸藩邸で政務を執り、新政府軍に恭順を示したものの、国元では旧幕府方だった庄内藩に同調し長瀞陣屋は、新政府方の天童藩の襲撃を受け、落とされています。
旧幕府軍が敗北すると、国元の幕府方寄りの行動は不問とされ領地は安堵されたものの、長瀞陣屋は大きな被害を受け、周辺の世情も不安定だった事から、明治2年に飛地の一つ上総国山辺郡大綱村に移住しています。
6月に施行された版籍奉還を経て長瀞知藩事に就任しましたが、本拠地を大綱に遷した事で大綱藩を立藩、政敏は大綱知藩事に就任しています。
明治3年に長瀞周辺の藩領が山形県の管轄になった事を受け、代地を政府に求めた為、常陸国河内郡龍ヶ崎村等6ヵ村が宛がわれました。
政敏は本拠地を大綱村から龍ヶ崎村へ遷し、明治4年2月に龍ヶ崎藩を立藩、龍ヶ崎知藩事に就任しています。
しかし、度重なる藩庁の移転による費用や年貢徴収の混乱等により財政が逼迫し政府に支払う負担金を滞納しています。
明治4年7月に廃藩置県が施行されると龍ヶ崎藩は廃藩となり、龍ヶ崎県が立県されたものの同年11年に新治県に統合された為、龍ヶ崎陣屋も廃されています。
陣屋跡は官有地となり、学校の敷地として利用されましたが、大正時代に民間に払い下げられた為、龍ヶ崎小学校は現在地に移転し、その跡地は宅地や畑地となっています。
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