・鹿島城は平安時代末期に鹿島政幹によって築かれたとされます。
鹿島政治幹は鹿島成幹の3男として生まれ、成幹が死去すると6人の兄弟の中で「鹿島」姓を継承した事から鹿島郡の郡司に就任したと見られています。
成幹は平国香の曾孫で吉田郷を本貫として「吉田」姓を掲げた清幹の3男とされる事から、政幹は当初、常陸平氏一族に同調し平家方として行動したようです。
しかし、金砂城の戦いでは平家方の佐竹氏と対立した源頼朝に従い、その功績により養和元年に鹿島社惣追捕使に任ぜられ、地位を確立しています。
ただし、政幹は居館を粟生の地に構えたとされ、正平23年に鹿島幹重が鹿島城に本拠地を遷したと伝えられています。
鹿島幹重は北朝方に属し、足利尊氏に従い文和元年/正平7年には南朝方の有力武将新田義宗と武蔵国小手指原で合戦に及んでいます。
その後は鎌倉公方足利氏満に従い、康暦2年/天授6年に小山義政攻めに従軍、至徳3年/元中3年には小山若犬丸が籠城する小山祇園城攻略にも参陣し功績を挙げています。
「鹿島治乱記」によると家督を継いでいた兄である鹿島景幹が下総の米野井城に立て籠もる井内右馬頭との戦いで討死すると永正2年に幼少だった鹿島義幹が当主に就任したとされます。
義幹は塚原卜伝の門人である玉造源三を重用し、大永3年には鹿島城を大規模に拡張整備、目を見張る程の豪華に仕上げ、その費用を領民に重税を貸して賄おうとした事から領民や家臣達から恨みを買うようになったとされます。
鹿島家の家臣の内、吉川覚賢、松本政信、小鹿野幹匠、額賀大炊助之等が鹿島家と対立する周辺領主達の後ろ盾を得て反乱を起こしました。
鹿島義幹は総勢700名で鹿島城に立て籠もりましたが、反乱軍3千が城を取り囲むと不利を悟り下総の東城に退いたとされます。
義幹は鹿島城の奪還に兵を挙げたものの、その戦いの中討死、孫の鹿島治幹の代に城主に返り咲き、永禄8年には土浦城を支配下に入れ版図を広げています。
しかし、永禄9年に治幹が死去すると次男の鹿島氏幹と3男鹿島義清が家督を巡り対立し永禄12年には「鹿島義清の乱」が勃発し、大規模な内乱に発展しました。
その後も一族同士の対立が続き、何度となる当主が交代し次第に衰微しました。
天正18年時点の城主だった鹿島清秀は佐竹義宣に従い、豊臣方の小田原の参陣を果たしたものの、秀吉への臣下の令を行った参列者には選ばれなかったようです。
清秀は所領が安堵されましたが、天正19年に他の常陸国南部の領主達と共に佐竹氏の居城だった太田城に呼び出され謀殺されています。
その報告を知った清秀の奥方は家臣達と計り、鹿島城に立て籠もり、侵攻する佐竹勢に対して徹底抗戦したものの遂に落城し、奥方も自刃して果てたと伝えられています。
現在の鹿島城山公園が本丸跡で、南側の高台が二之丸が廃されていました。
本丸の周囲には復元された土塁の他、東側の虎口に至る土橋の左右には空堀跡、西側の麓にも水堀跡があったとされます。
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