・江戸崎城の正確な築城年は不詳ですが、嘉慶元年に山内上杉家の被官だった土岐原秀成が当地に入封し、応永年間から永享年間頃に築城されたと推定されています。
秀成は応永16年に常陸国信太荘惣政所として名を連ねており、山内上杉家から篤く信任されていた事が窺えます。
応永18年に秀成は東光山明王寺円満院に紛失状を発布している事から領内の社寺を保護していた事が判ります。
跡を継いだ土岐原憲秀も重きを成し、応永30年には足利持氏の命で、小栗討伐に従軍し、行方郡の豪族達を率いる立場だったようです。
憲秀の跡を継いだ土岐原景秀は正長元年に発生した山入祐義の乱や結城合戦で大功を挙げ、永享12年には霞ヶ浦海賊取締役に就任、家系図によると景秀が江戸崎城を修築したと記されています。
景秀は康正元年には幕府から所領が安堵され、康正2年には東条荘内二階堂盛秀領の継承が認められています。
土岐原修理亮景成は文明8年に信太郡の一宮である楯縫神社の社殿を造営している事から土岐原家が信太郡を主導する立場で権威を示しています。
その他に景成は江戸崎に山門無動寺を開山し、延徳2年に菅天寺を開創する等社寺の保護に積極的だったと思われます。
景成は嗣子が居なかった事から本家筋の美濃国守護職を歴任した土岐惣領家である土岐政房の子供である治頼が養子となり土岐原家の家督を継いでいます。
永正元年頃、治頼はまで幼少だった事から江戸崎領侵攻を画策する小田城の城主小田氏が信太庄山内衆の一翼を担う、臼田弥治郎や原内匠助等を内応させ反乱を起こさせたものの、事前に発覚し事なきを得ました。
しかし、数年後には小田氏によって江戸崎城は接収されたと見られ、治頼は江戸崎城から離れたようです。
その後、治頼は関東管領山内上杉家に従い小田氏を激しく攻め、屋代城攻めや小田政治との合戦、伊佐津竹内城攻め等に参戦し、天文11年頃に江戸崎城の奪還に成功したようです。
天文12年、本家の土岐頼芸が斎藤道三に敗れ美濃国を追われた事から、治頼が土岐家の惣領になったようで、苗字を「土岐」姓に改めています。
山内上杉家の没落に伴い土岐家は独立を図り、小田氏の勢力が衰退すると、信太庄、東条庄を治める国人領主となっています。
しかし、小田原北条氏の台頭すると北条家に従うようになった事から天正18年に発生した小田原の役の際、豊臣勢に攻められ、江戸崎城は落城、土岐家も没落しています。
江戸崎城には佐竹義宣の弟である蘆名盛重が4万5千石で配されましたが、義宣は慶長5年の関ヶ原合戦で東西中立の立場を採った事が咎められ久保田藩に減封となり盛重も従った事から江戸崎城は廃城となっています。
江戸崎城は比高10〜20数mの稲敷台地の舌状地形先端に位置し、東の小野川、南西の沼里川で三方を囲う要害の地で、小野川は霞ヶ浦に直結した事から水運の要衝でもありました。
南から本郭、二之郭、三之郭が配され、それらに附属する小さな郭が複数確認され、南北に700〜1000mに及び、各郭の周囲を土塁や堀切、空堀、水堀等で囲っていたようです。
現在は公民館や稲荷神社、江戸崎小学校、鹿島神社、瑞祥院等で利用されている為、多くの遺構は失われましたが、土塁や五里の一部が残されています。
茨城県:城郭・再生リスト
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