・戸村白は永暦元年に戸村能通によって築かれたのが始まりとされます。
能通は藤原秀郷の後裔の一族である那珂家三代目当主那珂通兼の次男で、常陸国那珂郡大井郷戸村を本貫として事から地名に因み「戸村」姓を掲げました。
一方、有力大名だった佐竹氏との関係を深め、能通の娘が佐竹家第2代目当主佐竹隆義に嫁ぎ、第3代目当主佐竹秀義の生母となっています。
能通の跡を継いだ戸村小三郎通基は承久の乱で鎌倉幕府第2代執権北条泰時に従い、瀬田・宇治川の戦いで敵兵3人の頸を挙げる戦功を挙げ地域を確立しています。
南北朝時代の当主だった戸村又五郎は本家筋の那珂通辰と共に南朝方に与し、北朝方に与した佐竹貞義と激しく対立しています。
正平16年/康安元年、佐竹方の詰め城である金砂城攻防戦で敗北し、撤退を余儀なくされますが、その撤退戦でも進退窮まり自刃に追い込まれています。これにより戸村家の本流は断絶し、戸村城も廃城となっています。
その後、佐竹家第12代当主佐竹義人の三男義倭が大掾満幹との養子縁組を解消、寛正元年に当地に配されると、戸村城の跡地を整備し「戸村」姓を掲げ、佐竹系戸村氏の初代となっています。
義倭には嫡男が居なかった事から兄で佐竹家第13代当主である佐竹義俊の五男義易を養子として迎えています。
義易の跡を継いだ戸村義廣は城下に龍昌院を開創する等、領内整備を行い、江戸重通の娘、知哀院を嫡男の戸村義和の側室として迎えています。
しかし、天正18年の佐竹義宣の策略により江戸氏は反豊臣方に仕立てられ、義廣も苦しい立場に置かれましたが、江戸氏攻めでは義廣自ら参戦し戦功を挙げています。
戸村義和は佐竹家の重臣として文禄の役で朝鮮半島の出兵に参陣したものの、文禄元年に朝鮮高麗熊川の陣中、又は船中で、討死、又は病死したとされます。
慶長7年、関ヶ原の戦いで東西中立を保持した咎により佐竹義宣は久保田藩に減封になり、義和の跡を継いだ戸村義国もそれに従い当地を離れた為、戸村城は廃城になったと思われます。
戸村城は那珂川により形成された河岸段丘の東岸に築かれた城郭で、東西約450m、南北約700mの規模を誇ります。
主郭は東西約400m、南北約300m、「北城」、「御城」、「南城」と呼ばれる郭があり、南側には戸沢氏の祈願所である文殊院(戸村観音)、北側には戸村家の菩提寺である龍昌院が配されています。
戸村城の跡地は宅地化や畑地利用等によって改変されていますが、現在でも、随所に土塁や堀の遺構が散見され中世城郭の雰囲気が感じられます。
茨城県:城郭・再生リスト
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