・下妻陣屋は正徳2年に井上正長が当地に1万石で入封し、下妻藩を再藩した際に藩庁として設けられた行政機関です。
井上正長は美濃国郡上藩主井上正任の三男として生まれ、元禄6年に郡上藩から3千石が分知された事で交代寄合となり、甲府藩主だった徳川綱豊(家亘)の家老を務めています。
綱豊(家亘)が6代将軍に就任すると引き続き御側衆として家亘(綱豊)の権勢に尽力した為、加増を重ね正徳2年に家亘(綱豊)が死去すると、その遺命により正長は1万石で諸侯に列格し、下妻藩主に就任しています。
その後も奏者番や社寺奉行等の要職を歴任し、跡を継いだ娘婿養子の井上正敦も大番頭や奏者番等を担いました。
13代藩主井上正兼は遠江浜松藩主井上正甫の8男として生まれ、安政3年に12代藩主井上正信の死去に伴い下妻井上家の養子となり家督を継ぐと下妻藩主に就任しています。
元治元年3月に水戸藩の浪士等を中心とる水戸天狗党が筑波山で挙兵すると、その対応を下妻藩が担うようになった事から、下妻陣屋が幕府の天狗党追討軍の拠点として利用されました。
7月7日には高道祖村、下妻多寶院等で天狗党と交戦したものの敗退し下妻陣屋に撤退しています。
7月9日の早朝に天狗党が下妻陣屋町を急襲、攻防戦は1日余りで決し、幕府の追討軍は撤退、翌10日には陣屋に立て籠もっていた下妻藩士50人余が幕府追討軍に合流を要請するも拒否された為、自ら陣屋に火を放し江戸藩邸に撤退しています。
慶応2年に家督を継ぎ第14代藩主に就任した井上正巳は、幕府の混乱に対処し、当初は幕府方に与し江戸城清水門の警備等を担いました。
慶応4年3月に新政府軍による江戸城無血開城が行われると恭順を示し、正巳は下妻陣屋に退いたものの天狗党から急襲されて以来、藩庁部分の再建が行われ無かった為、正巳は焼け残った長屋で政務を執っています。
慶応4年4月に、国府台で結成された旧幕府軍が北上し、下妻陣屋に達すると「東照大権現」と書かれた幟旗を掲げた大軍に囲われ、土方歳三等の説得により一部の下妻藩士が旧幕府軍に従軍する事で難を逃れています。
しかし、戊辰戦争が新政府軍の勝利で終結すると、下妻藩は旧幕府軍に協力した事が咎められ、改易の危機に陥りましたが、家老による懸命な弁明と、幕府方として行動した今村昇等を処刑した事で、何とか改易を免れています。
明治4年に廃藩置県が施行されると下妻藩は廃藩となり、下妻陣屋も廃されたと思われます。
下妻陣屋は現在の下妻第一高校から北側に位置し、校庭の北東隅に鎮座している城山稲荷神社の境内には土塁の一部が残されています。
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