・鷲宮砦は南北朝時代に北朝方の有力武将で常陸国戦線に派遣された高師冬が拠点の一つとして築いたと推定されています。
興国元年/暦応3年5月27日に高師冬は南朝方の戦略的な拠点だった駒城を急襲し、城主だった中御門少将実寛を捕縛、駒城も落としています。
しかし、高師冬が引き上げると、駒城は南朝方に奪還され、さらに救援に駆け付けた大軍勢により、周辺にあった八丁砦、関本砦、善光寺砦と共に鷲宮砦も落とされたと見られ、興国元年六月一日の越後権守秀仲奉書(結城古文書写)に「同廿八日八丁目垣本鷲宮善光寺山四ケ所城放火没落」と記されています。
鷲宮砦は一時廃城になったようで、応永16年に源家綱が当地の沼と森林を開拓した際に、沼森鷲神社を開創したとされます。
ただし、砦の名称が「鷲宮」である事から、砦が築かれた際に鎮守社として感状されたか、それ以前から奉斎され、その境内に砦が築かれたとも考えられます。
祭神の天日鷲命は阿波国を開拓し、穀麻を植えて紡績の業を創始した阿波忌部氏の祖神で、その忌部氏が阿波から坂東を経て殻木を植えたとの故事が地名「結城」の由来になったとの伝承があり、当地も忌部氏が関わった可能性があります。
現在の鷲神社の宮司家は源家綱の後裔と云われている事から、家綱以来、当地を治める土豪のような存在で、境内は居館として利用したのかも知れません。
戦国時代の元亀3年、北条氏照勢が駒城に侵攻した際、鷲宮砦にもその軍勢の一部が攻めたようで、落城の憂き目にあっています。
その後は完全に鷲神社の境内となり、江戸時代には社領3石が安堵、寛文2年には沼森村の名主赤松氏と朱印地争いとなり宮司家が勝訴しています。
鷲宮砦は微高地の平城で、周囲を土塁と堀で囲い、さらに沼田が広がっていたようです。現在も、鷲神社の境内の西側には幅10m程の堀跡と思われる窪地や土塁の一部と思われる若干の土盛が残されています。
又、鷲神社の鳥居は元禄14年に宮司家の高橋出羽掾が奉納したもので、花崗岩製、高さ3.59m、幅4.7m、貴重な事から八千代町指定文化財に指定されています。
茨城県:城郭・再生リスト
|