古渡城

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古渡城:略データ
・場 所・茨城県稲敷市古渡
・築城年・慶長8年
・築城者・山岡景友
・城 主・山岡景友・丹波五郎左衛門長重
・構 造・平城
・文化財・−
・指定日・−
・概 要・古渡城は慶長8年に山岡景友によって築かれたと云われています。

山岡景友は近江六角氏の家臣で勢多城の城主山岡景之の四男として生まれ、当初は仏門に入り暹慶と号し三井寺光浄因の住持を担っています。

室町幕府の奉公衆と親しかった事からその後、15代将軍足利義昭の幕臣に取立てられ、軍功を重ねると元亀3年には上山城の守護に補任されています。

義昭が織田信長によって京都から追放されると信長が従い、天正10年に本能寺の変で信長が横死すると、織田信雄に従ったものの、天正12年に発生した小牧長久手の戦い後は羽柴秀吉の家臣となり御伽衆に加えられています。

慶長3年に秀吉が死去すると、豊臣家を見限り、黒田長政を通じて徳川家康に接近しています。

慶長5年に発生した関ヶ原の戦いでは東軍に与して、伊勢長島城の守備や近江水口城、伊勢桑名城攻防戦で功績があり、9千石が安堵され甲賀組の指揮権を認められています。

その後も福知山城攻めにも従軍し、慶長8年に古渡領1万石が認められ、古渡藩を立藩、藩庁、藩主居館となる古渡城を築城しています。

しかし、同年12月20日に死去、享年64歳、婿養子だった山岡景本は幼少で、藩政を担う事が出来ないと判断され嗣子として認められず改易となっています。

代わって丹波五郎左衛門長重が1万石で入封し古渡藩主に就任しています。

長重は織田家の家臣である丹羽長秀の長男として生まれ、信長の死後は羽柴秀吉に従ったものの、123万石の大大名となった長秀が死去すると、紆余曲折を経て小松領12万石の大名に落ち着いています。

慶長5年に発生した関ヶ原の戦いでは西軍に与した為、改易となりましたが、慶長8年に古渡藩1万石で復権しています。

山岡景友の古渡藩主の赴任機関は僅か2ヵ月余りであった事から、古渡城が完成していたとは考えにくく、長重が引き継いで竣工させたと思われます。

長重は慶長19年に発生した大坂の陣で功績を挙げ、元和3年には2代将軍徳川秀忠の御伽衆に抜擢、元和5年に常陸江戸崎藩2万石で移封になった為、古渡藩は廃藩、古渡城も廃城となっています。

古渡城は単郭の陣屋程度の規模とされますが、丹羽長重は築城の名手として知られ、16年余り古渡藩主を務め、さらに、西側の空地や、南東の智福院境内にも土塁と思われる土盛が見られる事から、実際は複数の廓があり数倍規模だった可能性があります。

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