石岡城

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石岡城:略データ
・場 所・茨城県石岡市田島1丁目
・築城年・建保2年
・築城者・大掾資幹
・城 主・大掾資幹・大掾氏・石岡氏・札掛兵部之介・札掛民部介・田島大学
・構 造・平山城
・文化財・−
・指定日・−
・概 要・石岡城は建保2年に鎌倉幕府から府中の地頭職を命じられた大掾資幹が当地に赴任した際に築かれたとされます。

平国香の子供である平貞盛は平将門の乱平定で大きな功績を挙げた為、将門に代わり常陸国内の多くの所領が認められました。

貞盛は嗣子が居なかった事から弟の平繁盛の子供である平維幹を養子として迎え、維幹が常陸国大掾職に任ぜられた事から後裔は「大掾」姓を掲げたとされます。

ただし、家系図や文献上で平安時代後期に当家が大掾職を担った人物を見る事は出来ません。

嫡流は筑波郡多気を本貫地とした事から「多気」姓を掲げていましたが、建久4年に多気義幹が失脚、代わって庶流である吉田(馬場)資幹が義幹の所領と所職が与えられ常陸国大掾職に任ぜられています。

資幹は建保2年に常陸国府がある府中の地頭職を命じられ当地に赴任すると、石岡城を築き、後裔は常陸大掾職の地位を継承した為、大掾氏と呼ばれるようになったとされます。

「掾」とは日本の律令制下の四等官制において、国司の第三等官を指し、最も高い位置付けの大国には大掾、小掾が設置された事から、大掾氏はかなり格式の高い氏族だった事が窺えます。

一方、常陸国の守護職を担っていないものの、国府がある府中を掌握していた事から常陸国守護職を担った小田氏や佐竹氏とは対立関係にあり、激しい戦が繰り広げられています。

南北朝時代の城主である大掾高幹は中先代の乱では北条時行に同調したものの、その後は南朝方に属し、南朝方の有力武将である楠木正家を支援しています。

建武3年に楠木正家が籠る瓜連城が北朝方に落とされると、建武4年には当地まで侵攻を受けています。

一度は撃退に成功したものの、結局、建武5年に北朝方に転じ、その後は足利将軍家に従っています。

そのような中、高幹の子供である詮国が承和2年/正平元年から5年の年月をかけ府中城を築城し本城を遷した為、石岡城は府中城の外城と呼ばれました。

その後、石岡城には大掾氏の有力家臣である石岡氏や札掛兵部之介、札掛民部介、田島大学等が配されましたが、天正18年の小田原の役で大掾氏は北条氏に与した為、豊臣方に与し常陸国54万石を安堵された佐竹氏によって攻め滅ぼされた事から程なく廃城になったと思われます。

石岡城は恋瀬川によって形成された河岸段丘に築かれた城郭で、現在の札掛大明神・岡田稲荷神社境内周辺が主郭と見られ、その南西側に隣接する平場が二之郭、北西側に三之郭、南東側に四之郭が配されていました。

現在、宅地や畑地となった為、多くの遺構は失われましたが、岡田稲荷神社の北東側には土塁と空堀の一部が残され往時が偲ばれます。

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