・武田氏館は現在の湫尾神社が境内を構えている高台一帯と推定され、武田氏発祥の地の石碑が建立されています。
武田家の祖は、河内国壷井(現在の大阪府羽曳野市壷井)を本貫とする河内源氏の棟梁である源頼義の三男源義光、所謂新羅三郎義光とされます。
永保3年に出羽国内の現在の秋田県南部で後三年合戦が勃発すると、義光の兄で陸奥守だった源義家がその対処に当たり義光はその補佐として参陣し、清原武衡・家衡の本拠地だった金沢柵の攻防戦で激しい戦いを繰り広げています。
後三年合戦の平定が完遂すると、義光は京都い帰還、その後、常陸介に任ぜられ常陸国に赴任すると当地の有力豪族だった常陸平氏(吉田一族)から奥方を娶り、次第に勢力を拡大させていきました。
義光は常陸国支配を確立する為、長子である義業を常陸国久慈郡佐竹郷(現在の茨城県常陸太田市)、三男である義清を常陸国吉田郡武田郷(茨城県ひたちなか市武田)に配し、義業は地名に因み「佐竹」姓を掲げ、義清は地名に因み「武田」姓を掲げました。
義清は刑部三郎、武田冠者と呼ばれ上野介源兼宗の娘を奥方として娶り源清光をもうけています。
「長秋記」の大治五年十二月三十日の条によると「常陸国司、住人清光濫業の事などを申すなり、子細目録に見ゆ」と記されており、清光は武田郷の境界線を巡り周辺領主といざこざを起こしていた事が窺えます。
上記の事が原因で平清幹の嫡男で常陸の在庁官人でもある大掾盛幹と激しく対立する事となり、その抗争に敗れると、天承元年に甲斐国市河荘へ配流となっています。
「甲斐国志」によると「義清が初め官を授かり市川郷に入部したるを誤りて京師より還さると憶ひ、配流と記したるならん、必ず流罪には有るべからず」と記しています。
甲斐国に土着した武田義清、清光父子は開国の開発に尽力し、後裔は甲斐国守護職を歴任し戦国時代には武田信玄を輩出しています。
武田氏館は那珂川左岸の河岸段丘、武田台地の舌状に延びた突端部に築かれ、那珂川やその支流が天然の堀に見立てられていたようです。
現在は常磐線の開削や、土砂掘削、湫尾神社境内整備により目立った遺構は失われています。
湫尾神社の境内北側には中世の武家屋敷を復元し敷地内には木造で主殿造りの主屋の他、納屋、厩、表門、板塀、堀を整備、主屋には武田家発祥の関係資料や甲冑、刀剣、武田遺跡出土資料等が展示されています。
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