・寛文元年に水戸藩主徳川頼房の4男松平頼元が兄で水戸藩主を継いだ徳川(水戸)光圀から常陸国那珂郡内2万石を分知され額田藩を立藩しました。
元禄13年に額田藩2代藩主松平頼貞は陸奥守山藩に移封、守山藩領は陸奥国田村郡31村、常陸国茨城郡4村、鹿島郡19村、行方郡11村合計2万石で構成されました。
守山藩領の内、常陸国内にある34村の管理監督する為、成田村松川(現在の茨城県大洗町成田)に出張陣屋が設けられ当地は松川領と呼ばれました。
江戸時代末期、守山藩6代藩主松平頼升は江戸藩邸に滞在していたものの、江戸市中は混乱を極めていた事もあり、慶長4年3月に藩邸詰めだった親族や家臣300人余りを引き連れ松川陣屋に退避しています。
慶応4年5月6日に陸奥国、出羽国、越後国の諸藩が新政府軍に反対する奥羽越列藩同盟が結成すると守山藩も参加したものの、時世を読んで積極的な行動を控えています。
新政府軍が当地まで進軍してきた事を受け降伏、その後は新政府軍の東北戦線に従軍しています。
明治元年に頼升は病弱だった事により11歳と幼少だったものの、養子である松平頼之が藩主の代行を行っています。
新政府軍が勝利すると、その功績により明治2年に9千3百石を受領しています。
同年に版籍奉還が行われると、頼升は守山藩知事に就任し、政務を守山陣屋で行おうとしたものの、当時の守山は世情が不安定で、藩主の松平家は定府大名で陣屋には藩主の居館が設けられていなかった事から松川陣屋に本拠地を遷す事を願い出て許可を得ています。
同年8月に松平頼之が正式に家督を継ぎ、明治4年正月に藩号を松川藩に改称、しかし、正月あけの1月9日、火災により松川陣屋の多くの施設は焼失しています。
明治4年7月に施行された廃藩置県により松川県が立県しましたが、同年12月に新治県に組み込まれ、県庁も土浦に統合した為、松川陣屋も廃されています。
松川陣屋は涸沼を見下ろす標高25mの台地の突端に位置し、敷地内には御殿や金蔵、火薬庫、稗蔵、表門、裏門等が整備されました。
敷地内に鎮座している豊姫稲荷神社は松川陣屋が設けられた際、陣屋の鎮守社として感状されたと伝わる神社で、倉稲魂命が祀られています。
現在の松川陣屋の跡地は畑地や宅地として開発された為、多くの遺構は失われています。
茨城県:城郭・再生リスト
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