・多良崎城が何時頃築かれたのかは不詳ですが、伝承によると常陸大掾平国香の孫、吉田太郎広幹の三男である三郎里幹が築城したと伝えられています。
里幹は地名に因み「多良崎」姓を掲げたとされ、後裔は当地の地頭として城主を歴任したようですが、南北朝の動乱で南朝方の与した事から没落したとされます。
一方、水戸藩が文化年間に小宮山楓軒に命じて編纂された「水府志料」によると「館跡、リョウガイと呼ぶ所にあり。要害の訛なるべし。何人の居なるをしらず。按、大掾系図、吉田三郎兼幹の第二子多良崎次郎盛忠あり。此人の居処ならん歟。」と記されている事から多良崎盛忠が居館として利用していた事が窺えます。
又、発掘調査により大量の常滑焼の大甕の破片が発見されており、それらの鑑定から多良崎城は鎌倉時代から南北朝時代にかけて築かれたと推定されています。
その後、江戸通重の次男である平沢通村の後裔、足立五郎左衛門通義と足立又五郎通定兄弟が城主となり、地名に因み「足崎」姓を挙げました。
天正18年小田原合戦で豊臣秀吉に謁見し功績を挙げた佐竹義宣は常陸国内で小田原北条氏方に味方した国人領主や、豊臣方に参陣を行った領主達を討ち取る事を許された事から惣無事令発令後でも常陸国を軍事力で席捲、多良崎城にも大軍が差し向けられ僅か1日で落城したそうです。
その後、利用されたとの記録が無い為、廃城になったと思われます。
多良崎城は太郎崎と呼ばれる真崎浦最大の半島に築かれ、城郭直下まで海水が入り込んでいた事から、三方が水面で囲われていました。
約55m四方の本郭を起点として、北側に二之郭、三之郭、四之郭が配され、四之郭の北端の高台には狼煙台が設けられていました。
本郭の周囲は高さ約2.5mの土塁が廻り、東側には虎口の大手門があり南側と西側には隅櫓が設けられています。
現在でも土塁や空堀等の遺構が残され、多良崎城公演として整備されています。
多良崎城の城跡は貴重な事からひたちなか市指定史跡に指定されています。
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