| ・長井戸城が何時頃築城されたのかは判りませんが、発掘調査によって建物の柱穴、空堀、土塁から12世紀〜13世紀の「瓦器」や「瓦質式土器」等が見つかった事から鎌倉時代に築かれたと推定されています。
その後の経緯は不詳なものの、皆川老甫(皆川広照)の口述を江戸時代中期の兵学者である大道寺友山が筆録したとされる「東国闘戦見聞私記」によると天文年間に菅谷左京が城主だったと記されています。
菅谷氏の出自は判りませんが、当城の近くに「菅谷」の地名がある事や城の規模から察すると長く当地を支配した土豪のような存在だったようです。
天文23年に小山高朝勢の侵攻を受け、菅谷左京は敗北、隣接する稲尾城の城主稲尾加賀守と共に小山氏の配下となっています。
当時の小山高朝は北条氏康が古河公方に足利晴氏を擁立した事に激しく抵抗していた事から菅谷氏は古河公方側に与していた事が窺えます。
小山氏は越後上杉家と小田原北条家に翻弄され、天正4年に北条氏照の侵攻により、小山氏の本城である祇園城(小山城)が落城、小山秀綱は佐竹義重を頼り常陸の佐竹領に落ち延びた為、長井戸城も北条方に接収されたと思われます。
天正10年に秀綱は祇園城主に復権したものの、北条家の与力に組み込まれた為、天正18年に発生した小田原の役で北条方に与した為、没落しています。
その後の菅谷氏の詳細は判りませんが近隣の土豪である相良氏と共に朝鮮の役や大坂の陣等にも参陣したとされ最終敵に帰農し長井戸城も廃城となっています。
現在、城址に鎮座している香取神社の開創年は不詳ですが、別当寺院だった花蔵院は天正2年に開創された真言宗の寺院で、当初は長井戸沼を西に望む台地に境内を構えていましたが、長井戸城が廃城になった後に現在地に遷ってきたと思われます。
長井戸城は南北約100m、東西約80mの平城で、主郭と副郭で構成され、周囲を堀と土塁で囲っていました。
主郭と副郭の境界には「横矢かかり」と思われる鉤型の土塁が設けられ、以前は長井戸沼があり天然の外堀に見立てられていたようです。
現在でも東側の土塁と空堀、北側の土塁、香取神社境内にも空堀の遺構が残され貴重な存在です。
茨城県:城郭・再生リスト
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