水戸街道 :江戸〜土浦〜水戸

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概要:歴史・観光・見所
水戸街道(茨城県)概要: 水戸街道は、徳川御三家の一家である水戸徳川家の居城である水戸城の城下町と江戸とを結ぶ街道です。水戸徳川家は副将軍の格付けで江戸の定府が義務付けられていた為、基本的には参勤交代は行われませんでした。しかし、家臣の往来は頻繁に行われ、さらに、陸奥国の太平洋側を領していた諸大名が参勤交代で利用した為に重要視されました。水戸街道は茨城県の中でも主要な都市を結んだ為、多くは近代化に伴う建て替えや、道路の拡幅工事などで古い町並みや歴史ある建築物が失われつつある中取手宿本陣である染野家住宅(取手市指定史跡・茨城県指定重要文化財)や中貫宿本陣である本橋家住宅(土浦市指定有形文化財)、稲吉宿本陣である坂本家住宅(かすみがうら市指定有形文化財)、稲吉宿の旅籠を営んでいた木村家住宅(皆川屋・茨城県指定文化財)などが残されています。

【水戸宿】−水戸宿(茨城県水戸市)は鎌倉時代初頭に当地に配された馬場資幹が水戸城を築いて以来、城下町として発展しました。その後は、馬場家の後裔である大掾氏が長く支配し、室町時代には大掾氏を破った江戸氏が城主となり安土桃山時代には豊臣秀吉に従い常陸国を掌握した佐竹氏の居城となりました。佐竹義宣は豊臣政権下で54万石の大身として水戸城の改修の拡張を行いましたが、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで東西中立を保った為、久保田藩(秋田県秋田市)に移封となりました。水戸城は江戸に近い要地として重要視され、佐竹氏移封後は徳川家の一族である武田信吉と徳川頼宣が城主となり慶長14年(1609)に徳川頼房が入封すると改めて水戸藩を立藩し水戸徳川家初代となっています。水戸城下は行政の中心であると共に、水戸街道、棚倉街道、結城街道、瀬戸井街道、飯沼街道などの街道が交差する交通の要衝として多くの物資が集められ経済的にも大きく発展しています。江戸時代末期には政治的な影響力も大きくなり、15代将軍徳川慶喜の輩出や、水戸浪士による「天狗党の乱」、水戸藩脱藩者による「桜田門外の変」などに関わっています。町並みは空襲や近代化により古い町並みは見られませんが、水戸城の城跡や藩校の弘道館、日本三名園に数えられる水戸偕楽園などが点在しています。

【府中宿】−府中宿(茨城県石岡市)は古代常陸国の国府が設置された場所で、現在でも国衙や国分寺、国分尼寺の跡地や、国の祭祀を司った常陸國總社宮などが残されています。中世は大掾氏の居城だった府中城(石岡城)の城下町として発展し、江戸時代には府中藩の藩庁が置かれた府中陣屋の陣屋町となりました。

【土浦宿】−土浦宿(茨城県土浦市)は水戸街道の宿場町であると同時に土浦藩の藩庁、藩主居館が設けられた土浦城(亀城)の城下町として発展した町です。水戸街道の宿場町、霞ヶ浦舟運の拠点として多く物資の集積場となり経済的にも当地域の中心となりました。宿場内には山口家と大塚家が本陣職を歴任し、身分の高い人物の宿泊所や休息所となりました。比較的古い町並みも残され中でも矢口酒店は江戸時代中期の建物で茨城県指定文化財に指定されています。

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