瀬戸井街道概要: 瀬戸井街道は水戸城下(茨城県水戸市)と瀬戸井(群馬県邑楽郡千代田町)を結んだ街道で、水戸城下と筑波山神社を最短距離で結びました。参勤交代では利用されず、江戸城から北東(鬼門)方向に位置している事から、江戸城の鬼門鎮守として徳川歴代将軍から崇敬庇護され祈願所となった筑波山神社への信仰の道と物資流通の道として整備されました。特に江戸時代中期以降、一般庶民にも行楽嗜好が高まると、筑波山神社に詣でる人が急激に高まり、街道沿いの宿場町も大いに利用されました。筑波山神社には安藤抱琴(水戸藩国学者)や三橋夕流(水戸藩士)、小宮山風軒(水戸藩学者)、立原翠軒(彰考館総裁)、阿部林之丞(仙台藩領民)など多くの文人墨客や学者なども参拝に訪れた為、その都度瀬戸井街道も利用されています。幕末には水戸浪士により結成された水戸天狗党が瀬戸井街道を利用して筑波山に集結し街道沿いの村々が大きな被害を受け歴史的な舞台の1つにもなっています。
【下妻宿】−下妻は中世、多賀谷氏の居城である下妻城(多賀谷城)の城下町として発展した町です。多賀谷氏は戦国時代末期、佐竹氏から養子を迎えるなど従属した為、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは佐竹氏と共に東西中立を保ち、改易、その後は佐竹氏に従い久保田藩(秋田県)に従いこの地を離れています。変わって結城秀康の弟の鶴千代丸が10万石で入封し下妻藩を立藩、その後は短期間で藩主が交代し正徳2年(1712)に井上正長が1万石で入封すると以後井上家が藩主を歴任して明治維新を迎えています。下妻宿は井上家の陣屋町、瀬戸井街道の宿場町、物資の集積場として発展し、周辺地域の中心地となっています。
【筑波山神社】−鎮座地である筑波山は古くから霊山として信仰の対象となり、古代人からの自然崇拝が初源とされています。奈良時代に編纂された国書である「古事記」では伊弉諾尊と伊弉冊尊の結合により産み出された「おのころ島」が筑波山にあたるとされ、既に中央でも知られた存在でした。筑波山神社は、延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳では名神大社として記載されるなど格式が高く、歌枕の地として数多くの歌の題材にもなっています。歴代の領主、為政者から常に崇敬庇護され、特に江戸時代には、筑波山神社の境内が江戸城から鬼門(北東)に当たり、格式の高い神社であった事から祈願所として、社領の寄進や社殿の造営などが行われ、壮麗な境内が作り出され益々信仰が広がりました。
【古河宿】−古河は室町時代に第5代鎌倉光公方足利成氏が本拠を移し古河公方と呼ばれた場所で、形式上は関東以北の政治の中心となりました。当初は対立した関東管領の上杉家と同等な勢力を保持し度々攻防戦が繰り広げられましたが、戦国時代に入ると、両家の弱体と越後上杉家、小田原北条家の台頭により徐々に影響力が限定的となり、最終的には北条氏に従い、その北条氏が滅んだ事で大名家としては没落しました(名跡は残され、江戸時代には小録ながら大名格として取り上げられた)。江戸時代に入ると小笠原家におり古河藩が立藩し、古河城には藩庁、藩主居館が設けられ、その後も有力譜代大名が藩主を務めました。古河は古河城の城下町、奥州街道(日光街道)、瀬戸井街道の宿場町、渡良瀬川舟運の拠点として繁栄しました。又、徳川将軍家が日光東照宮に参拝する際には古河城で宿泊した為、将軍の宿城として重要視されました。
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