飯沼街道(鹿島神宮:信仰の道)

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概要:歴史・観光・見所
飯沼街道(茨城県)概要: 飯沼街道は水戸城下(茨城県水戸市)と飯沼宿(千葉県銚子市)を結ぶ街道で、街道沿いには東国三大社(鹿島・香取・息栖)である鹿島神宮が鎮座する鹿島宿、息栖神社が鎮座する鳥栖宿、飯沼観音が境内を構える飯沼宿を結んでいた事から信者や参拝者が利用しました。特に江戸時代中期以降一般庶民の行楽嗜好が高まると東国三社詣が流行し飯沼街道だけでなく、霞ヶ浦や下利根川から遊覧船が発着し大いに隆盛しました。

【鹿島神社】−鹿島神宮の創建は不詳ですが奈良時代の養老5年(721)に編纂された常陸国風土記にも社号を連ねる東国随一の古社で、延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳に名神大社として記載され、常陸国一之宮として朝廷、為政者、常陸国主、歴代領主から崇敬庇護されました。祭神の武甕槌大神は神話での「国譲り」の際に建御名方神(信濃国一之宮:諏訪大社の祭神)との力比べで勝利した事から武神として信仰の対象となり、藤原氏はじめ多くの武将からも崇敬されました。江戸時代に入ると歴代徳川将軍家から庇護され社殿の造営や社領の寄進が行われ社運も隆盛し、一般庶民も数多く参拝に訪れました。鹿島宿は飯沼街道の宿場町であると共に鹿島神宮の門前町として発展し多くの町屋が軒を連ねました。

【息栖神社】−息栖神社の創建は応神天皇の御代に勧請され、大同2年(807)に藤原内麻呂が現在地に遷座したと伝えられています。平安時代に編纂された「日本三代実録」によると仁和元年(885)に於岐都説神(当時の息栖神社の名称)が従五位下に列した事が記載され、古くから知られた存在だった事が窺えます。その後は鹿島神宮との関係性を深め一体的に信仰される節もありました。江戸時代に入ると幕府から庇護の対象となり社領14石が安堵され、江戸時代中期以降は東国三社詣が流行し、多くの参拝者が訪れるようになりました。息栖宿は飯沼街道の宿場町であると共に息栖神社の門前町、利根川舟運の拠点としても発展しています。

【飯沼観音】−飯沼観音(円福寺)は神亀元年(724)に当村の漁師の1人が漁をしている際、海中から網に入った十一面観世音菩薩を拾い上げ自宅で祀ったのが始まりとされます。弘仁年間(810〜824年)、当地を巡錫で訪れた弘法大師空海が仏意を感じ、一宇を設けて十一面観世音菩薩を本尊として祀りました。その後は歴代領主が帰依した事で寺運も隆盛し、霊験が広まると坂東三十三観音霊場第27番札所に選定され、さらに多くの参拝者が訪れるようになりました。飯沼宿は飯沼観音(円福寺)の門前町を都市的な発生で、その後は利根川舟運の拠点、外川港の港町として多くの物資が集められ、ここを中継地として江戸まで運ばれました。

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