下妻市(歴史)概要: 下妻市の歴史は古く承平4年(934)に編集された「和名類聚抄(和名抄)」に「しもつま」と記されています。中世に入ると結城氏の家臣だった多賀谷氏が下妻33郷の領主となり下妻市周辺を支配します。多賀谷氏は結城家4大重臣の1家として勢力を拡大していきますが、独立した大名になるべく画策し、戦国時代末期には佐竹氏に従属し周辺の小田氏や小田原北条氏に対抗し領土を広げました。小田原の役では豊臣秀吉に臣従し6万石が安堵されますが結城家家臣という格式だった為、佐竹氏派と結城家派に分裂します。
関ヶ原の合戦では結城家派は東軍に属し、佐竹氏派は東西中立を保った為、結城家派は結城家家臣3万石が認められ、佐竹氏派は領地が没収され佐竹氏に従い秋田に下向しました(多賀谷氏は檜山領主に赴任しています)。
江戸時代に入ると慶長11年(1606)に徳川頼房が10万石で入り下妻藩を立藩、元和元年(1615)からは松平忠昌、その翌年からは松平定綱が入り定綱が遠江掛川城に移封される一端廃藩となります。
正徳2年(1712)井上正長が1万石で入封すると改めて下妻藩を立藩し、下妻陣屋を築き領内を整備します。下妻市中心部は城下町だけでなく瀬戸井街道の宿場町、小貝川、鬼怒川舟運の川港町として多くの物資が運び込まれ経済的に大きく発展しました。
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