海了寺(新庄家:菩提寺)

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【 菩提者 】 新庄家は平将門の乱の平定や三上山の百足退治の伝説で知られる藤原秀郷の後裔を称する俊名が室町幕府2代将軍足利義詮に仕えた事で近江国坂田郡新庄が与えられ地名から新庄氏を称したのが始まりとされます。その後も将軍家の被官として一定の影響力を保持し直昌の代には朝妻城を築城しここを本拠にした小領主として確立したようです。天文18年(1549)直昌が討死すると、跡を継いだ直頼は僅か11歳と幼少だった為、程なく北近江に台頭した浅井氏に吸収されたと見られ、元亀元年(1570)の姉川の戦いでは本陣である浅井長政の前衛を任される程の有力武将として布陣し織田信長と対峙しています。天正元年(1573)に浅井家が滅ぶと(小谷城攻防戦前に調略されたとも)織田信長、豊臣秀吉に仕え天正19年(1591)には近江大津領1万2千石が与えられ、その後は文禄3年(1594)に大和宇多城、文禄4年(1595)には3万石に加増され摂津高槻城に入ります。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは西軍に与し伊賀上野城(三重県伊賀市上野丸之内)を占拠するなど功を挙げますが、本戦である関が原で西軍が敗退した為改易となり蒲生秀行預かりとなっています。直頼は元々、東軍に与したかったようですが周辺領主が全て西軍に与した為、やむなく協力したとされ、又、預かり先だった蒲生家も近江出身の大名だった事から好意的に捉えられ慶長9年(1604)、改めて常陸麻生領3万300石を与えられ麻生藩(茨城県行方市麻生−麻生陣屋)を立藩しています。2代藩主直定は弟である直房に3千石を分知し2万7千300石となり、3代直好は嗣子が早世した為、直時(直頼の4男新庄直房の次男)を養子に迎え直時が4代藩主に就任しています。しかし、直好に直矩が生まれた為、直矩が元服になると幕府の裁定により直時は隠居し隠居料として7千石が分知され5代藩主直矩の後見人となりました。延宝4年(1676)、直矩が18歳で死去すると嗣子が居ない為、幕府に無断に藩主を擁立しようと画策しようとしましたが計画が露呈し麻生藩は改易となります。その後、後見人だった直時に3千石が与えられ合計1万石で再び麻生藩を立藩し6代藩主に就任しています。その後も新庄家が藩主を歴任し明治維新を迎えています。新庄家の菩提寺である海了寺(行方市)は3代藩主直好により創建されましたが、基本的に菩提は江戸の菩提寺である吉祥寺(東京都文京区本駒込)に葬られました。海了寺には4・6代藩主直時の墓碑が唯一で本堂(旧衆寮)には、麻生藩歴代藩主の大位牌が安置されています。

【 寺  号 】 海了寺
【 所在地 】 茨城県行方市麻生
【 中興年 】 明暦3年(1657)
【 開  山 】
【 開  基 】 新庄直好(麻生藩3代藩主)
【 山  号 】 大意山
【 宗  派 】 曹洞宗
【 本  尊 】
【 備  考 】 4代新庄直時の墓・歴代藩主の大位牌
茨城県大名菩提寺
松平信一土屋家小田家水谷家伊佐氏・石川総管笠間家秋田家秋田家新庄家妙印尼土井家佐竹家鮭延秀綱水野家結城朝光水戸徳川家逆井常繁千姫本堂家
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