笠間家は元久2年(1205)、下野守護職宇都宮頼綱の甥にあたる塩谷時朝(頼綱の弟である塩谷朝業の2男)が正福寺と徳蔵寺の争乱を鎮める為に当地域に派遣され、その子時朝が嘉禎元年(1235)笠間の佐白山に笠間城(茨城県笠間市)を築き笠間氏を称し初代となりました。2代景朝と3代盛朝は鎌倉幕府御家人として名を連ね、5代泰朝は南北朝の争乱時に南朝方に与し行動しました。佐竹氏の侵攻により一時領地が占拠されましたが、6代将朝が足利尊氏に懇願し7代家朝の代に笠間十二郷の地頭職を任ぜられ旧領の安堵が図られています。戦国時代に入ると概ね主家である宇都宮家に従い周辺3000貫を領していたとされ、益子氏や結城氏などの戦いに従軍しています。特に益子氏との戦いは熾烈を極めたようで、家臣である谷中玄蕃允が討死し、翌年には弔い合戦を挑み大勝し益子重綱を捕縛したと伝えられています。18代綱家は天正17年(1589)、益子領に侵攻し占拠しましたが、益子氏の後ろ盾である結城氏、領地が隣接する佐竹氏、主家であったものの、佐竹氏の従属関係になっていた宇都宮氏との対立を招き、小田原北条氏に与するようになります。天正18年(1590)の小田原の役では宇都宮国綱の要請にも反して小田原城(神奈川県小田原市)に参陣せず、結果として国綱の侵攻を許し笠間城は落城、綱家は落ち延び箱田に逃げ隠れたようですが笠間家は事実上没落しています。楞厳寺(笠間市)は笠間家の菩提寺で時朝が建長寺(神奈川県鎌倉市)の住職大拙和尚を招いて中興開山しました。楞厳寺の境内には苔生して領主名が明確でないものの五輪塔18基、宝篋印塔1基が笠間家累代の墓として笠間市指定史跡に指定されています。又、楞厳寺の山門は室町時代に建てられた大変貴重な建物で国指定重要文化財に指定されています。
笠間城−笠間城は鎌倉時代初期から戦国時代末期まで笠間家の居城でした。標高182mの佐白山の山頂から中腹に掛けて幾重もの郭が造成され、関東地方の山城では珍しい石垣を多用されました。山頂付近に設けられた、本丸、二ノ曲輪、三ノ曲輪が笠間城の中心で、本丸の最高所には天守曲輪が設けられ天守閣(2重)が聳えていました。江戸時代に入ると麓に行政機関や藩主居館が設けられましたが、山頂の城郭も引き続き維持されました。明治時代に入り廃藩置県により笠間藩が廃藩になるとそれに伴い笠間城も廃城になりましたが、八幡櫓と、薬医門、裏門が払い下げになりながらも現在にその姿を残しています。
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