弘経寺(千姫:菩提寺)

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【 菩提者 】 千姫は2代将軍徳川秀忠の長女として生まれ、豊臣秀吉の遺言により7歳となった慶長8年(1603)に11歳の豊臣秀頼と結婚しました。二人の仲は良好だったようですが、豊臣家と徳川家の関係は次第に悪化し慶長19年(1614)には大坂冬の陣が勃発します。この戦いでは徳川軍が大坂城を攻めあぐねましたが、大筒が天守閣に被弾すると城中の足並みが崩れ豊臣家の不利な条件で和睦し、慶長20年(1615)の大坂夏の陣では裸同然の大坂城に徳川方が攻め掛かりあえなく落城します。千姫は秀頼と淀君と共に蔵の1つに身を潜めていましたが女中の機転により千姫を脱出させ豊臣方の堀内氏久が徳川方の坂崎直盛の陣所に送り届け、さらに直盛が秀忠の陣まで送り届けました。秀頼には側室の間に2人の子供がいたとされ男子である国松は捕らえられ六条河原で斬首、女子である天秀尼は千姫の養女として仏門を入る事で助命されています。元和2年(1616)、本多忠刻(桑名藩主・本多忠政の嫡男、本多忠勝の孫)と再婚の際、千姫を助けた一人坂崎直盛が千姫強奪を画策、その計画は事前に幕府の知る事となり直盛は自害、坂崎家も改易になっています。一説には千姫を助け出した者に千姫を与えるとの御達しがあったとされ、それを真に受けた直盛が再婚の件を聞いて逆上したとも云われています。千姫と忠刻の間には一男一女をもうけましたが元和7年(1621)に嫡男である幸千代、寛永3年(1626)には忠刻、同年に生母である江(織田信長の姪)が次々と死去し、娘である勝姫と共に江戸に戻り出家して天樹院を名乗ります。後年は江戸城北の丸の竹橋に屋敷を設けて暮したとされます。寛文6年(1666)死去、享年70歳、戒名「天樹院殿栄譽源法松山禅定尼」。千姫は生前、了学上人を篤く帰依していた為、上人が再興していた弘経寺(常総市)を菩提寺と定め千姫が死去すると霊廟が設けられ幕府の庇護により多くの堂宇が再建され大寺院と変貌を遂げました。千姫の菩提寺は弘経寺の他、伝通院(東京都文京区小石川)、知恩院(京都府京都市東山区林下町)とあった為、近年まで弘経寺の廟には遺髪が納められていると推定されていましたが平成9年(1997)の保存修理の為、調査すると石櫃の中から火葬された遺骨の一部が納められていた事が判明しました。

【 寺  号 】 弘経寺
【 所在地 】 茨城県常総市豊岡町
【 創建年 】 応永21年(1414)
【 開  山 】 嘆誉了肇上人(増上寺開山聖聡上人)
【 開  基 】 羽生家
【 山  号 】 寿亀山
【 宗  派 】 浄土宗
【 本  尊 】 阿弥陀如来
【 備  考 】 千姫姿絵−江戸時代初期−絵画:縦31cm、横53cm−常総市指定有形文化財
千姫の墓(天樹院廟)−実際に遺骨の一部が埋葬された−常総市指定史跡
扁額(千姫直筆伝)−源秀忠公御息女天樹院建立−常総市指定有形文化財
紺紙金泥阿弥陀経(4巻)−千姫の孫が写経−常総市指定有形文化財
茨城県大名菩提寺
松平信一土屋家小田家水谷家伊佐氏・石川総管笠間家秋田家秋田家新庄家妙印尼土井家佐竹家鮭延秀綱水野家結城朝光水戸徳川家逆井常繁千姫本堂家
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