正定寺(土井家:菩提寺)

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【 菩提者 】 土井家は清和源氏から発生した摂津源氏一族である美濃源氏土岐氏の庶流とされ土岐光定の次男定親の後裔とされる早乙女利重が三河国碧海郡土居村を領し、土井氏を称したのが発生の起源とされます。利重を継いだ土井利昌は徳川家に従い、水野信元(徳川家康の生母である於大の方の実兄)の庶子(3男)とされる利勝を養子にしたとされます。又、一説には利勝は徳川家康と利昌の娘(玉等院)との間に出来た御落胤で一旦水野家に養子に出され、再度土井家の養子になったとも云われています。利勝は形式的には家康の従兄弟にあたり、幼少の頃から後に2代将軍となる徳川秀忠の側近として近しい関係にありました。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは秀忠に従軍し中山道を西上、上田城(長野県上田市)攻防戦にも参加しています。本戦となる関が原には到着出来なかったものの慶長7年(1602)には下総国小見川藩(千葉県香取市)1万石を与えられ諸侯に列し、慶長15年(1610)には3万2千石で佐倉藩(千葉県佐倉市)に移封し幕政では老中に就任しています。さらに出世は続き寛永10年(1633)には古河藩(茨城県古河市−古河城)16万石に移封、寛永15年(1638)には大老に就任しています。寛永21年(1644)死去、享年72歳、戒名「宝池院殿前拾遺穏誉泰翁覚玄大居士」。古河藩は長男である利隆が継ぎましたが、利勝の遺言により弟である利長と利房に1万石、利直に5千石が分知され13万5千石になっています。3代利重になると弟の利益に1万石、叔父にあたる利長と利房に1万石、利直に5千石を分知した為、10万石となり家臣も大量解雇されました。4代藩主利久は幼少で早世した為、後継をおらず、土井家の改易も示唆されましたが譜代の名門も惜しみ分家した利益(2代藩主土井利隆の次男)が5代藩主に就任、ただし7万石に減じられ、天和元年(1681)には鳥羽藩(三重県鳥羽市)7万石で移封となっています。宝暦12年(1762)、土井家宗家8代を継いだ土井利里(旗本土井利清の次男)が古河藩に移封となり土井家が古河藩主に復権しています。跡を継いだ利厚は奏者番、寺社奉行兼帯、京都所司代、老中などを歴任し土井家中興の祖と呼ばれる人物で文政4念(1821)には1万石が加増されています。跡を継いだ利位(三河刈谷藩主土井利徳4男)も利厚は奏者番、寺社奉行兼帯、大坂城代、京都所司代、老中など幕政で活躍しました。最後の藩主となった利与は戊辰戦争の際は逸早く新政府軍に協力し会津征討軍の兵糧方として功を挙げています。正定寺は初代土井利勝が寛永10年(1633)に古河大野にある正定寺の住職である当誉玄哲和尚を招いて創建した土井家の領内菩提寺で、多くの藩主は江戸菩提寺である誓願寺に葬られましたが昭和に入り境内整備などが行われ正定寺(古河市)に改葬されています。又、正定寺には土井家縁の品々を多数所有し23点が古河市指定文化財に指定されています。

【 寺  号 】 正定寺
【 所在地 】 茨城県古河市大手町(東片町)
【 創建年 】 寛永10年(1633)
【 開  山 】 当誉玄哲和尚(江戸増上寺13世、古河市下大野にある正定寺41世)
【 開  基 】 土井利勝(初代古河藩主・江戸幕府大老)
【 山  号 】 利勝山(証誠山)
【 宗  派 】 浄土宗
【 本  尊 】 阿弥陀如来
【 備  考 】 土井家墓所(初代土井利勝夫妻の宝篋印塔など)−古河市指定史跡−指定日:昭和50年(1980)
土井家遺品(23点)−古河市指定有形文化財−指定日:昭和43年(1968)
旧土井家江戸下屋敷表門(正定寺黒門)−古河市指定有形文化財−指定日:昭和43年(1968)
茨城県大名菩提寺
松平信一土屋家小田家水谷家伊佐氏・石川総管笠間家秋田家秋田家新庄家妙印尼土井家佐竹家鮭延秀綱水野家結城朝光水戸徳川家逆井常繁千姫本堂家
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