浄真寺(土浦市)概要: 光照山浄真寺は茨城県土浦市立田町に境内を構えている浄土宗の寺院です。浄真寺の創建は不詳ですが慶長6年(1601)、松平信一が3万5千石で土浦城に入封し土浦藩を立藩した際、自らが開基となり真誉一諸上人を招いて中興開山、法名である「浄真院弁誉道雄専水大居士」から浄真寺に寺号を改めています。
松平信一は徳川家康の血族である十八松平の一家である藤井松平家の2代目で家康からの信任も厚かったとされます。浄真寺は松平家の菩提寺として庇護され境内には七堂伽藍を備えなど寺運は隆盛します。その後、文化13年(1816)と文久3年(1863)の2度火災により諸堂を焼失しその都度再建、再興を繰り返しています。
現在の浄真寺本堂は安政2年(1855)に再建されたもので入母屋、瓦葺、梁間6間、平入、正面向拝付、外壁は真壁造り、白漆喰仕上げ、浄土宗建築で寺門には三つ葉葵が掲げられています。本尊の銅造阿弥陀如来立像は弘長元年(1261)に大江末吉が製作し平常益が施主となって寄進したもので像高49.6pの善光寺式如来像(但し脇侍無し)、意匠的に優れ製作年代が明確である事などから昭和34年(1961)茨城県指定重要文化財に指定されています。
又、浄真寺境内には土浦出身の山口剛の墓があり昭和48年(1973)に土浦市指定史跡となっています。山口剛は土浦出身の国文学者・中国文学者で早稲田大学などで教鞭をとり数々の文学研究をまとめあげました。昭和7年(1962)享年48歳で死去する山口家代々の菩提寺である浄真寺に葬られています。境内には山口剛の他、高野長英、小林渉、久松五右衛門などの墓があります。
高野長英は仙台藩水沢領(現在の岩手県奥州市水沢区)の武家として生まれ医者・蘭学者とし名を馳せましたが幕府の異国船打払令を批判した為、逃亡を繰り返し嘉永3年(1850)に自刃しました。遺骸は密かに水沢出身の薬種問屋「神崎屋(片岡家)」の主人が運び出し自宅の墓地に埋葬していましたが昭和15年(1940)、片岡家が土浦に移り住む事になり浄真寺に改葬されています。
境内背後の土盛は土浦城の土塁とされ外郭に残されているものとしては最大規模で形状も良好に残されています。山号:光照山。宗派:浄土宗。本尊:阿弥陀如来立像。
【 参考:文献等 】
・ 現地案内板-土浦市教育委員会
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