清滝寺(土浦市)概要: 南明山慈眼院清滝寺は茨城県土浦市小野に境内を構えている真言宗豊山派の寺院です。清滝寺の創建は不詳ですが伝承にようと推古天皇15年(607)、推古天皇の勅願により聖徳太子が龍ヶ峰山頂の御堂を設け自作の聖観音像を安置したのが始まりとされます。
又、「坂東霊場記」によると筑波山に鎮座する筑波山神社の2神が当地を訪れた際、喉の渇きを覚え杖を突き刺したところ南北2カ所から霊泉が滾々と湧き出し、その後訪れた行基菩薩が霊地と悟り南側の霊泉の方に一宇を設け、自ら彫り込んだ聖観音像を安置したのが始まりとされます。
大同3年(808)には徳一大師(坂東霊場記では花山法皇)が中興し、当初あった龍ヶ峯から中腹(古観音)へ移したとされ、重病を患った小野小町が病気平癒の祈願をする為に清滝寺を参拝したとの伝説も残っています。中世は領主である小田城城主小田氏の庇護となり寺運も隆盛し清滝寺の境内には七堂伽藍が軒を連ねていたそうです。
戦国時代末期になると小田氏は佐竹氏や北条氏などの大大名に囲まれ領内が度々戦場となり清滝寺も天正年間(1573〜1592年)に兵火により焼失します。さらに小田氏は天正15年(1590)の小田原の役に参加しなかった事で領地が認めらず没落、清滝寺は庇護者を失い一時衰退します。江戸時代に入ると幕府から庇護され朱印状を賜り再び隆盛し元禄年間(1688〜1701年)には本堂を再建します。明治維新後神仏分離令などもあり急速に衰退し、無住になるなどしましたが再度再興しています。
昭和44年(1969)の火災により本堂や本尊など多くの堂宇、寺宝、記録などが焼失し、当時からの建物は山門(楼門)だけになりました。清滝寺山門は江戸時代後期の天保年間(1830〜1844年)に建てられ、入母屋、瓦棒葺、三間一戸、桁行3間、張間2間、八脚楼門で2層目には高欄を廻し1層目の両側には文化15年(1818)に再興された仁王像が安置、外壁は真壁造り白漆喰仕上げ、木部朱塗り、彫刻部は極彩色。
清滝寺本堂は昭和52年(1977)に再建されたもので、木造平屋建て、宝形造、銅瓦棒葺き、桁行4間、梁間4間、正面1間向拝付、花頭窓付。宗派:真言宗豊山派。本尊:千手千眼観音。山号:南明山。院号:慈眼院。坂東三十三箇所第26番札所(札所本尊:聖観世音菩薩・御詠歌:わが心 今より後は にごらじな 清滝寺へ 詣る身なれば)。
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