愛宕神社(土浦市)概要: 愛宕神社の創建は平安時代の天慶年間(938〜947年)、平貞盛(常陸平氏の祖とされる平国香の嫡男)が「平将門の乱」平定の戦勝祈願の為、愛宕神(軻遇突知命)の分霊を勧請したのが始まりと伝えられています。軻遇突知命(迦具土神)は伊弉諾尊と伊弉冉尊の御子神で、前身が火で覆われ出産の際に伊弉冉尊は下半身が焼かれて焼死した神話から火の神とされ、特に火防に御利益として信仰されました。
又、愛宕神社は太平洋を望む高台に境内を構える事から、社殿や石灯籠の灯りが灯台の役割を持ち信仰の対象とされました。特に土浦城から測ると風水でいう裏鬼門の方角に愛宕神社の境内がある為、裏鬼門鎮守として土浦城の城主から信仰されるようになり小田氏(小田城の城主)家臣である菅谷伊豫守勝貞が祭礼を行いました。
江戸時代に入ると引き続き土浦城の城主の庇護となり、寛文9年(1669)又は延宝7年(1679)に土浦藩の藩主である土屋数直により社殿が改築され、神燈2基を寄進、社殿の屋根には土屋家の家紋、三石紋と九曜紋が掲げられています。土屋数直は2代将軍徳川秀忠と3代将軍徳川家光、4代将軍徳川家綱に仕え、幕政では書院番組頭、駿府城番、小姓組番頭、家綱の側衆、若年寄、老中などの要職を歴任し寛文2年(1662)に1万石で土浦藩に入封し、後に4万5千石まで加増されています。
特に寛文5年(1665)に老中に昇進した後は江戸城で幕政を担った為、土浦城は主に嫡男である土屋政直が担っており、愛宕神社の社殿の改築が延宝7年(1679)とすると政直が携わった事になります。愛宕神社は江戸時代までは神仏習合の形態を採り、本地仏として勝軍地蔵が祭られていましたが、明治時代の神仏分離によりそれらが廃され愛宕神社として村社に列しています。
現在の愛宕神社社殿は元禄12年(1669)の火災で焼失後の文化8年(1811)に再建されたもので、本殿と拝殿が凸状に一体となる複合社殿になっています。拝殿は木造平屋建て、入母屋、茅葺、平入、桁行3間、梁間2間、正面一間向拝付、外壁は真壁造り板張り。本殿は入母屋、茅葺、妻入、間口1間、奥行き2間、華美な彫刻や彩色が少ない質素な建物ですが重厚な印象を受けます。愛宕神社社殿(本殿・拝殿)は江戸時代後期に建てられた数少ない神社社殿建築の遺構として貴重な事から平成13年(2001)に土浦市指定文化財に指定されています。
境内にはその他に享保5年(1720)に建立された明神鳥居や天保5年(1835)江戸馬喰町播磨屋善九郎による灯籠、享保18年(1733)の下高津の道標(土浦市指定史跡)などが建立されています。毎年7月には例祭である祇園際(八坂神社が合祀されている為)が行われ2台から3台の山車が町内を練り歩きます。隣地には平安時代初期開山の常福寺が境内を構えています。御祭神は軻遇突知命。
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