麻生城(別名:羽黒城)概要: 麻生城の築城年は不詳ですが大掾氏一族で行方四頭(小高氏・島崎氏・麻生氏・玉造氏)に数えられた麻生氏が平安時代後期の天慶年間(938〜947年)、又は鎌倉時代初期に築いたとされています。以来、麻生氏歴代の居城として整備、拡幅し長く当地を支配しました。
戦国時代になると同じ大掾氏一族で行方四頭の島崎氏と対立し、天正12年(1584)に17代常安は島崎義幹と戦闘状態となり麻生城は落城、当時の城主麻生常安は自刃し麻生氏も滅びました(落ち延びたとも)。一時、島崎氏が支配しますが天正18年(1590)の小田原の役で豊臣秀吉に謁見せず不参加だった為、改易となっています。
逆に参加して豊臣家の信任を得た佐竹義宣に攻められ、主家である大掾清幹も自刃に追い込まれ、残された大掾一族も天正19年(1591)に「南方三十三館」に義宣に招かれた際、他の国人領主と共に忙殺され滅亡します。麻生城には佐竹氏の家臣下川辺氏が入りますが、その佐竹氏も慶長5年(1600)関が原の合戦で東西中立を保った為、慶長7年(1602)に久保田藩(秋田県)21万石で移封となります。
代わって当地には新庄直頼が3万石で入封し、麻生藩を立藩、新庄氏は城主格ではなかった事などから麻生城には入らず東側の平地に麻生陣屋を築き、そこへ藩庁を移したことで麻生城は廃城となります。
現在、麻生城の城跡は羽黒山公園と常安寺の境内として整備されていますが郭の形状や土塁、空掘などの遺構が残っています。
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