逆井城(坂東市)概要: 逆井城は茨城県坂東市逆井に位置する中世の城郭です。逆井城の築城は室町時代に発生した享徳の乱の前後の享徳年間(1452〜1455年)祗園城の城主小山義政の5男小山常宗がこの地を領し逆井氏を名乗り築いたのが始まりとされます。
享徳の乱は享徳3年(1454)に発生し文明14年(1482)に終結した関東の大乱で、鎌倉公方に就任した足利成氏(永寿王)と関東管領上杉憲忠の対立が主要原因となり、成氏は好を通じた千葉氏や小山氏、宇都宮氏、結城氏、里見氏、小田氏(小田城の城主)を重用した為、山内上杉氏や扇谷上杉氏、上杉氏の家臣だった長尾氏、太田氏に不満が溜まりました。
双方の対立は争乱まで発展し大小様々な戦が関東各地で発生した為、鎌倉公方に与した小山氏に従った逆井氏は防衛拠点として逆井城の築城が必要されたと思われます。乱がしばらく続くと鎌倉公方が有利となりましたが、幕府が介入する事となり、結局対立関係が改善しないまま和睦となり、戦は収まったものの緊張関係は暫く続きました。戦国時代に入ると足利公方も関東管領上杉家も衰退し、代わって小田原北条氏の台頭を招き、逆井城はその最前線に立たされる事になりました。
天文5年(1536)逆井常繁の代に後北条氏と対立、北条氏康側の大道寺盛昌の攻略により逆井城は落城し常繁は討死(菩提は常繁寺に葬られた)、妻(娘説有)智御前は先祖伝来の釣鐘を被り池(後に鐘掘池と名付けられた。)に身を投げたと言われています。
その後、後北条氏の北進、多賀谷氏、佐竹氏の南進を防ぐ拠点として重要視され一族である北条氏照(当主である北条氏政の弟)や北条氏繁(北条氏の家臣・北条綱成の嫡男)、北条氏舜(氏繁の子供)が配されています。
天正5年(1577)に大規模な改修を行い、現在見られるような規模な城郭となりました。天正18年(1590)小田原の役で後北条氏が滅ぶと逆井城は廃城となり、現在は城址公園として整備され中世城郭の姿をできるだけ忠実に再現する為、2層櫓・井楼櫓・板塀・櫓門・木橋・主殿などが復元され関宿城門や旧大安寺観音堂が移築保存されています。
逆井城は郭の形状や空堀、土塁など多くの遺構が明瞭に残されていることから昭和60年(1985)茨城県指定の史跡に指定されています(昭和63年:1988年に緑地環境保全区域)。逆井城は平地に築かれた平城(東西約420m、南北約300m、敷地面積約126000u)で、大きく一ノ曲輪、東二ノ曲輪、西二ノ曲輪、三ノ曲輪、馬出などから構成され飯沼を天然の外堀とし(一部、内部まで引き込み船着場を設置)、それぞれの曲輪には深い空堀と土塁によって分断されていました。一ノ曲輪には基本的に馬出からしか侵入出来なく(便宜上、西二ノ曲輪から木製の橋により出入り可能ですが、戦の際は切り落とされたと思われます)、そこさえも金堀池(鐘掘池)という深い天然(?)の池で遮断されていました。
【 逆井城:主殿 】−現在復元されている主殿は、木造平屋建て、入母屋、銅板葺き、平入、面積65.67u、向かって右側が三間構成の主室、左側が三間構成の控ノ間、正面には枯山水庭園が作庭され書院風の造りとなっています。逆井城主殿の明確な資料が無い為、同時代、同規模と推定される堀之内大台城(堀之内潮来市堀之内)の主殿跡から規模や間取りを参考にして復元されました(堀之内大台城が築城されたのは文禄元年:1592年なので同じ室町時代ではあるものの、戦国期に築城された逆井城とは同時並列的ではありません)。
【 関宿城:移築城門 】−元々は関宿城(千葉県野田市関宿三軒家)の城門として建てられものですが、明治4年(1871)に廃藩置県が執行されると関宿藩は廃藩となり、明治5年(1872)に廃城が決定、明治8年(1875)に民間に払い下げ、関宿城は破却されました。当城門はこの際、旧猿島町内の鶴見家に払い下げとなり、城址公園整備に伴い、逆井城西二ノ曲輪に移築保存される事になりました。門は切妻、桟瓦葺き、一間一戸、薬医門形式、潜戸付、柱や門扉などの木部は朱塗り。
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