・伝説によると、平安時代後期頃に当地を治めていた源頼信の五男である常葉五郎義政が屋敷を構え、一盛長者と呼ばれていたとされます。
後三年合戦が発生すると、その平定の為に源義家10万の兵を率いて当地まで進軍すると、義家は義政の屋敷に宿陣し、三日三晩、豪勢な歓待を受けました。
源頼信は義家から見ると祖父にあたる事から、義政は父親の源頼義の弟となり、叔父、甥の関係だった事になります。
義家が後三年合戦の平定を完遂し、凱旋の為、再び義政の屋敷を訪れると以前より増して豪華な酒宴が開かれその富の大きさを目の当たりにしました。
朝廷は後三年合戦を義家の私戦と定め、義家に対し、恩賞だけでなく戦費の支払いすら拒否、さらに陸奥守も解任された事から、傷ついた家臣にも私財から僅かに与えるだけでした。
一方、義政は分家筋でありながら戦にも参加せず、私腹を肥し義家を上回る財力を有していた事から、義家はこのままでは危険な存在になる事を察し、義政一党に兵を差し向けました。
義政は密かに設けていた城外に脱出出来る抜け穴に逃げ込みましたが、義家勢に見つかり追い詰められました。
最後を悟った義政は家宝である黄金の鶏を抱いたまま那珂川に身を投げたと伝えられています。
伝説の真偽は判りませんが、城内と思われる一面には台渡里官衙遺跡群の台渡里廃寺跡が含まれている事から、貴族や既存勢力と武家政権を樹立しようとした源氏との激しい対立があったのかも知れません。
その後の詳細は判りませんが、当地が江戸氏の勢力下に入ると、家臣である春秋氏が配されている事から、春秋氏が現在見られるような城郭に拡張整備したと推定されています。
その為、天正18年に発生した小田原の役で豊臣方への参陣を怠った江戸氏が佐竹氏に攻め滅ぼされた事から、春秋氏も没落し長者山城も廃城になったと思われます。
長者山城は那珂川によって形成された河岸段丘の那珂川と田野川の合流地点に築城された崖端城です。
北東部に設けられた一之郭を起点とし、南側に二之郭、三之郭、西側に四之郭、五之郭を配し、北の田野川と東の那珂川を天然の外堀に見立てていたようです。
特に一之郭と二之郭とは大規模な土塁と空堀が設けられ、東南隅はクランクにして横矢掛かりとしています。
茨城県:城郭・再生リスト
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