・神宮寺城が何時頃築城されたのかは判りませんが、南北朝時代に東條氏が築いたと伝えられています。
東條氏は常陸平氏である大掾氏の庶家と云われ、大掾平国香から6代後裔の平直幹は5男忠幹に領地の内東條五郷を譲渡、永暦元年に忠幹は東條城を築くと地名に因み「東條」姓を掲げ東條五郎左衛門尉忠幹を名乗ったのが始まりとされます。
平安時代末期の源平合戦では平家方に与し、寿永2年に発生した源義広の乱では義広方として参陣し、源頼朝に敵対しています。
以上の経緯から乱が平定されると、東條氏は幕府から冷遇されたものの、幕府の御家人だった国井氏や中郡氏、那珂氏等と縁戚関係を結び、紀伊の熊野新宮速玉大社に社領を寄進する等関係を強化し後ろ盾を得て、難局を乗り越えています。
鎌倉幕府が滅亡すると、東條氏は東條荘の掌握に成功したものの、延元元年/建武3年に北朝方の足利尊氏が東條五郷の一つである高田郷を東條氏から取り上げ、同調した佐佐木定宗に与えています。
これに激怒した東條氏は南朝方に協力するようになり、その拠点とする為に神宮寺城を築城したとされます。
延元2年/建武4年、東條氏は南朝方を鮮明にし、常陸国内の南朝に同調する諸将を集めて挙兵しています。
延元3年/暦応元年に南朝方の有力武将である北畠親房が常陸国の南朝勢力を援護する為、伊勢国から約500艘の大船団を組織し、多くの兵員を乗船させ出航、一路常陸国を目指しました。
しかし、遠州灘で強風により多くの船は難破し生き残った兵員も四散、親房は僅かな手勢を率いて何とか常陸国信太郡東條浦に漂着しています。東條氏は親房を神宮寺城に招き入れ常陸国南朝方の拠点としました。
しかし、北朝方の佐竹義篤をはじめ大掾高幹、鹿島幹寛、烟田時幹等の諸将が挙がって神宮寺城を攻め立て落城、親房は小田氏を頼り阿波崎城に落ち延びています。
神宮寺城はその後、利用されたとの記録が無く、東條氏も興国2年/暦應4年に北朝方に降伏した事から間もなく廃城になったと思われます。
現在でも複数の廓跡や、土塁、空堀の一部が残され貴重な事から茨城県指定史跡に指定されています。
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