・柿岡城は建久3年に当時の小田城の城主八田知家の子供である時知(時家)が常陸国新治郡柿岡郷に配された際、築かれたとされます。
時知(時家)は地名に因み「柿岡」姓を掲げると、長く柿岡氏が当地を支配しました。
戦国時代になると常陸国北部の佐竹氏の台頭により小田氏の勢力が大きく削られ、それに伴い柿岡氏も衰退、柿岡城も佐竹氏方が管理し、佐竹氏に従った真壁氏の支配下にありました。
一方、扇谷上杉家の家臣で岩付城の城主だった太田資正が小田原北条氏方に敗れ岩付城を追放されると常陸国の佐竹義重を頼り佐竹家の被官となりました。
資正は真壁久幹と協力関係を築くと、次男である梶尾政景が久幹の娘婿になった事から柿岡城を任されています。
永禄12年に資正は佐竹義重、真壁久幹と共に手這坂の戦いで小田天庵に勝利すると小田城の管理は資正に任された為、資正は小田城に政景を配し、柿岡城は氏幹の養子となった真壁房幹が城主となっています。
その後、真壁氏幹が家督を房幹に譲ると房幹は真壁氏の本城である真壁城に遷った為、代わって柿岡城には長倉城から長倉義興が配され2千320石余の蔵入地を預けられています。
義興は慶長4年に佐竹義宣に命じられ水戸城の拡張整備を担当、しかし、工事の件で意見の対立があり、太田正宗寺に幽閉となり、慶長5年に自刃、又は毒殺によりこの世を去っています。
柿岡城は国分成重が配されましたが、同年に行われた関ヶ原の戦いで、佐竹氏は東西中立の立場を採った為、慶長7年に久保田藩に移封となり、成重もこれに従った事から当地を離れています。
その後の詳細は不詳ですが、慶長19年には関ヶ原の戦いで西軍方に与し浪人だった立花直次が柿岡領5千石が与えられ旗本として復権しています。
元和7年に跡を継いだ立花種次が筑後国三池郡に1万石で移封になった為、代わって稲葉正勝が柿岡領5千石で入封しています。
正勝は寛永元年に常陸国真壁郡5千石が加増された事で、合計1万石となり柿岡藩を立藩しています。
寛永5年に父親である稲葉正成が死去すると正成が藩主だった真岡藩2万石を継承し、柿岡藩領もその遺領に組み込まれた為、柿岡藩は廃藩、柿岡城も廃城となっています。
柿岡城の主郭は現在の柿岡小学校の敷地付近とされ、「首洗い井戸」が堀の一部だったと推定されています。
東端の高台に鎮座している諏訪神社境内付近は見張り台と推定され、他の曲輪とは堀切で分けられていました。
現在は小学校や社会復し協議会、保育所、考古博物館、善慶寺等に利用されている為、多くは消失しましたが、主郭の南西部の土塁や南側の堀の一部が残されています。
柿岡城の城址は貴重な事から石岡市指定史跡に指定されています。
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