・今城(別称:高野館・高野城)は天慶元年に平将門が興世王の為に築いたのが始まりとされます。
城は「今築いた城」が理由となり将門自身が「今城」と命名したそうです。
興世王は桓武天皇の皇子である仲野親王お曾孫、又は桓武天皇の皇子である伊予親王の玄孫とも云われる平安時代中期の皇族で、承平8年武蔵権守に就任したものの武蔵国司の百済王貞連と対立した事から天慶2年に平将門を頼り常陸国に落ち延びたとされます。
以上の経緯からもし、将門が興世王の為に今城を築いたとすると天慶2年から天慶3年という事になります。
興世王が「案内ヲ検スルニ、一國ヲ討テリト雖モ公ノ責メ輕カラジ。同ジク坂東ヲ虜掠シテ、暫ク氣色ヲ聞カム」と将門を焚き付けた事が、平将門の乱の原因の一つとも云われています。
興世王も平将門の乱に参加し、上総介に任命されましたが、将門が討死した5日後の天慶3年2月19日に上総で平公雅に討たれた事から、今城も程なく廃城になったと思われます。
南北朝時代の興国元年/暦応3年に南朝方に与した守谷城の城主相馬忠重が、南朝方の有力武将で、常陸国南朝方の諸将を支援する為に下向した北畠親房と北畠顕家父子に従った春日顕国の為に新たな城を築き招き入れたとの記録があり、今城の事との説があります。
その後、顕国は小田治久の本城である小田城に入り、各地に転戦したものの興国4年/康永2年に籠城していた馴馬城を宍戸朝里に攻められ落城、捕縛され処刑されています。
今城がどの様に利用されたのかは判りませんが、常陸国内の南朝方が敗北すると廃城になったと思われます。
今城は利根川によって形成された半島状の台地の突端に築かれた中世の城郭で、比高約10m、城の規模は東西600m、南北約200m、大きく3郭で構成され、それぞれ空堀にて区画されていたと推定されています。
現在は宅地造成により多くは消滅しましたが、主郭と思われる郭の一部と土塁の一部が残され、「うららか公園」としてこれ以上の湮滅から防ぐ措置が施されています。
茨城県:城郭・再生リスト
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