上条城

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上条城:略データ
・場 所・茨城県稲敷郡阿見町上条
・築城年・南北朝時代
・築城者・大越氏
・城 主・大越氏、江戸崎監物
・構 造・平城
・文化財・阿見町名所百選
・指定日・平成5年
・概 要・上条城が何時頃築城されたのかは判りませんが、南北朝時代に信太荘が関東管領上杉家の領地となり、家臣で当地に配された大越氏が築いたと推定されています。

信太荘は仁平元年に平頼盛の生母である藤原宗子が鳥羽院、又は美福門院得子が当地を寄進し成立した荘園です。

その後、河内の金剛寺に寄進されたものの、承久の乱後は皇室領に戻され、文保2年に後宇多院により東寺復興の為、東寺供僧と学衆に寄進しています。

鎌倉時代末期には執権北条氏領となった為、幕府が滅亡すると混乱が生じ、当地を支配した南朝方の小田氏領となっています。

常陸国の南朝からが衰微し、元中5年/嘉慶2年に鎌倉府が小田氏の本城である小田城に侵攻後、信太荘は鎌倉府、関東管領上杉家の支配下となり、上杉家に従った臼田氏、土岐原氏、大越氏、近藤氏が管理に当たっています。

大越氏は臼井氏や土岐原氏、近藤氏等と共に「信太山内衆」と呼ばれ、永享12年に発生した結城合戦では関東管領上杉清方の出陣要請を受け、信太荘でも激しい戦いが行われると勝利後は8代将軍足利義政から感状を賜っています。

文安3年には長尾憲景に嗣子が無く、大病を患った事から大越左京亮に常陸国河内郡足高郷や浜田村等の郷村を永代売り渡しが行われ版図を広げています。

その後、同じく「信太山内衆」だった土岐原氏が台頭した事から、土岐原氏に従ったようで、年代は不詳ですが、上杉憲忠が土岐原修理亮に宛の書状には「臼田河内入道・同四郎左衛門尉・大越大炊介知行分等事、如元可被還付候、謹言」と記されています。

戦国時代に関東管領山内上杉家が没落した後も引き続き土岐原氏に従い、当時の城主一族と思われる大越治部大輔、大越日向守、大越三河守等が高野山の清浄心院に供養を依頼しています。

天正年間に小田勢の侵攻を受け上条城は落城、大越大輔は下総に落ち延び、その後は小田氏の家臣である江戸崎監物が配されています。

天正2年、監物は小田氏と敵対していた佐竹氏方に転じた事が原因で、小田氏方の土岐(原)家の家臣、近藤氏が守備する木原城が落城しています。

しかし、天正3年に土岐(原)家の家臣諸岡逸羽に攻められ上条城は落城、監物も自刃しています。

永禄年間初頭頃に大越大輔が城主として復権したものの、天正18年に発生した小田原の役で土岐(原)家は北条方に与し、拠点だった江戸崎城、龍ヶ崎城が豊臣方に攻められ落城し没落した事から上条城も命運を共にし、大越一族も帰農したと伝えられています。

上条城の規模や縄張り等は不明な部分が多いですが、土塁や空堀の一部が残されています。上条城の跡地は貴重な事から阿見町名所百選に選定されています。

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