・高久館は永仁元年に大掾氏の家臣鈴木五郎高郷の後裔とされる鈴木高範がそれまでの居城だった大山城から当地に遷り当館を築いたとされます。
嘉元年間に佐竹家7代当主佐竹行義の6男である野口(馬渕)但馬守小三郎景義の嫡男高久式部大輔義有が高久郷の地頭職に就任し、当地に赴任した際、改めて館を整備したと考えられます。
その後は歴代高久氏が城主を歴任し佐竹家の一族衆として宗家を支えたと思われますが、11代当主佐竹義盛は男子に恵まれず、弟の義有は病弱だった為、関東管領上杉憲定の次男である義憲を義盛の娘の源姫の婿養子として迎え佐竹宗家を継がせた事から、大きく反発しています。
同じく、上杉家から養子縁組に反対し佐竹氏の有力庶流だった佐竹与義に同調し、宗家の義人(義憲)と対立しています。
しかし、応永29年に鎌倉公方足利持氏の命を受けた佐竹義人(義憲)により与義は敗北し鎌倉の比企谷で自刃に追い込まれています。
中心的な役割を担った与義を失ったものの正長元年に高久義本、義景父子も挙兵し、宗家に対して反旗を挙げましたが、宗家方に加担した佐竹氏一族で大山城の城主である大山義道に攻められ高久館は落城、高久氏も一時没落したとされます。
義景の子供である高久土時義の代に再興が図られ、佐竹宗家の被官として仕えたものの、天文4年に15代当主佐竹義舜の子供で、佐竹氏の庶流の宇留野家を継いだ部垂義元の反乱に、高久義貞が同調しています。
義貞は宗家に対して挙兵しましたが、義元の兄で16代当主の佐竹義篤は伊達稙宗の斡旋で江戸忠通等と和睦、義貞は孤立し進退窮まった事で降伏を受け入れ反乱が終結しています。
天文の乱が発生すると佐竹氏は伊達晴宗方に与した為、伊達稙宗方の相馬顕胤と対立する事となり、その戦いに従軍した高久義時、義貞、宮寿丸は窪田陣の帰陣の際、関山で龍撃を受け討死、それにより高久氏は領主格からは没落し高久館も廃されています。
尚、義貞の遺児の高久義明が高久家の家名を存続し断絶は免れたものの佐竹家の一家臣に組み込まれています。
高久館は那珂川によって形成された河岸段丘の東を見下ろす南東端に築かれた崖端城で、東南西の三方が崖地の要害となっています。
現在の墓地のある平地が主郭と見られ、堀切を挟んで北側が二之郭、西隣の天王社のある平場が三之郭、南側の突端が四之郭、北側の大手筋には二重の堀が設けられ、館というよりは複数の郭を有する城郭に相応しい規模となています。
高久館の跡地は現在も土塁や堀の一部の遺構や郭の形状が残され貴重な事から城里町指定史跡に指定されています。
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