・片野城が何時頃築城されたのかは判りませんが、江戸時代初期に編纂された「古今類聚常国誌」を補正・拡充する為に国学者中山信名が筆した「新編常陸国誌」の柿岡故城の項によると「文永8年八田時家始めて此に居る。数世之を繋ぐ」とあり、片野故城の項には「小田の臣八代(八田)将監之に居る」とある事から文永年間に八代(八田)将監が小田氏の本城である小田城の北方の守備する為に片岡城から遷され築いたのが始まりとされます。
一方、「将監の婿上曽源三郎が妻を太田三楽に妻す」とあり、太田三楽とは太田資正(1522〜1591年)の事と考えられる為、文永年間とは約300年のズレが生じています。
別説としては南北朝時代の興国2年に片野彦三郎親吉が片野城の城主で、小田城は滞在していた北畠親房に従ったとも云われています。
戦国時代には江戸忠通が平戸左助宛ての書状には「片野柿岡様躰心得申候」とあり、小田氏方の有力な支城で江戸氏が注視していた事が窺えます。
又、江戸時代後期の農学者長島尉信筆の「小田事蹟」によると「小田家ノ幕下」に「根古屋十六騎 上曽越後守」「片野加太野伊豆 太田三楽斎カ為ニ片野ヲ追退ラル」とあります。
永禄7年に上杉謙信の関東侵攻に同調した佐竹義昭は小田城を陥落させた事から、片野城も佐竹氏の管理下に入ったと思われ、永禄9年には義昭の跡を継いだ佐竹義重を頼って客将となった太田美濃守資正(三楽斎道誉)が片野城に配されています。
太田資正は上杉謙信の家臣筋の家柄だった事もあり、越相同盟が締結するとその処遇を巡り、謙信と佐竹義重が対立、義重から見ると資正は佐竹家の版図拡大に無くてはならない人材で、要衝である片野城の城主に抜擢する等、恩賞でそれに応え、資正も意気に感じていたようです。
永禄12年に小田氏が復権を狙い片野城を急襲、資正は佐竹家に早くから仕えていた真壁氏幹に援軍要請を行い、手這坂で両軍が激突し小田天庵を破っています。
さらに、佐竹義重軍と合流し、小田氏の本拠地でる小田城を攻め、これを落城させています。義重は恩賞として資正に小田城を与え、資正は小田城に次男の梶原政景を配しています。
しかし、資正の跡を継いだ太田資武は結城秀康に仕えて当地を去った事から文禄4年に佐竹義宣は佐竹一門の石塚義辰を片野城に配しています。
慶長5年に発生した関ヶ原の戦いで、佐竹氏は豊臣家に恩義を感じていた事もあり東西中立を維持した事から、慶長7年に久保田藩に減封となり、石塚氏もこれに従い当地を去っています。
慶長8年に徳川家康は滝川雄利を2万石で入封させ片野藩が立藩しています。
しかし、跡を継いだ滝川正利には嗣子がいなく、病弱だった事から寛永2年に所領の返上を幕府に願い出て1万8千石が収公され、片野藩は廃藩、残された2千石が娘婿の滝川利貞が継承しています。
元禄10年に利貞の跡を継いだ滝川利錦が近江国浅井郡、蒲生郡、坂田郡内4千石で移封となり当地を離れた為、片野陣屋(城)は廃止されています。
片野城は恋瀬川とその支流である八瀬川で形成された舌状の丘陵、比高約30mに位置し、東西約300m、南北約800mの規模を誇ります。
本郭を中心に数多くの郭が形成され郭の周囲には2〜3m程の土塁が廻り、主要な郭の間には深い空堀や水堀で隔離し、大手口には桝形や馬出が見られ、実戦的な城郭だった事が窺えます。
現在でも、郭の形状や土塁、堀の遺構が随所に残され、城の鎮守社だった七代天神社や太田資正の墓碑が見られます。
片野城の城址は貴重な事から石岡市指定史跡に指定されています。
茨城県:城郭・再生リスト
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