女化稲荷神社(龍ヶ崎市)概要: 女化稲荷神社は茨城県龍ケ崎市馴馬町に鎮座している神社です。女化稲荷神社の創建は不詳で諸説あり1説には鎌倉時代初期の建久年間(1190〜1199年)、源頼朝が富士の裾野で狩をしていたところ、霊夢に狐の化身が立ちどうか助けて欲しいと嘆願しました。
翌日になると寝所に弱りきった一匹の白狐が現れたので頼朝は常陸の国高見に稲荷を祀る祠があるのでそこに移り住みなさいと諭したと云われています。この伝承が正しければ建久年間以前から鎮座していた事になります。
又、一説には、根本村の忠五郎が一匹の狐を助けるとその夜、年老いた男と若い娘が一晩の宿を求めました。忠五郎は2人を篤くもてなしましたが翌日男の姿が消えた為、1人残された娘と一緒に住む事となり一女二男をもうけました。8年後、うっかりした娘は尾を隠す事を忘れ為、忠五郎や子供達にその姿を見られ狐だとばれてしまい、根本が原に姿を隠したそうです。
永正6年(1509)に稲荷信仰があった住民が伏見稲荷大社を詣で分霊を、上記の伝承が伝わる根本が原に勧請したのが創建だととも伝えられています(娘に出会ったのが永正7年:1510。娘が姿を消したのが永正14年:1517年という伝説も残っており、こちらが正しければ創建年はさらに下がります)。
女化稲荷神社は狐女房譚の舞台として名をはせると広く信仰を集めることになり住民達の精神的支柱となっていきました。文化元年(1804)の牛久一揆(女化騒動)では多くの農民が女化稲荷神社の境内に集まり決起したそうです。
女化稲荷神社は古くから神仏習合し別当寺院として来迎院が祭祀を司ってきましたが明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏式が廃され保食神社に改称し明治17年(1885)に女化神社に改称しています。又、女化稲荷神社の別当が来迎院だった事から境内を含む周囲一帯が龍ヶ崎市の飛地となっています。主祭神:保食命。
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