金龍寺(龍ヶ崎市)概要: 太田山金龍寺は茨城県龍ヶ崎市若柴町に境内を構えている曹洞宗の寺院です。金龍寺の創建は不詳で諸説あり、元亨元年(1321)新田義貞が天真自性和尚を招いて開山したのが始まりとも、義貞の死後一族である岩松満純が新田義貞の追善供養の為開いたとも、応永14年(1407)に由良氏(横瀬氏)が開いたとも、応永24年(1417)に新田貞氏が開いたとも云われています。
その後は新田家の後裔である横瀬氏、由良氏の菩提寺として庇護され寺運も隆盛しています。当初、由良氏の領地である上州太田(群馬県太田市)にありましたが天正16年(1588)に当時の当主、由良国繁が金山城(群馬県太田市)から桐生城(群馬県桐生市)に移ると金龍寺も随行し、天正18年(1590)の小田原の役の後に牛久城へ移封になると、牛久にも金龍寺が創建されています。
小田原の役の際、国繁は事実上の人質として小田原城(神奈川県小田原市)に軟禁されていましたが、嫡男である貞繁と母である妙印尼が豊臣軍として行動した為、かろうじて改易が免れ牛久領5千4百石が安堵されています。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは東軍に与し7千石に加増されましたが跡を継いだ貞繁が元和7年(1621)に急死すると跡継ぎを定めていなかった為、改易、その後、弟である貞長が1千石分が認められ高家として明治維新まで存続しています。
寛文6年(1666)、牛久藩2代藩主山口弘隆が新たに陣屋築城の計画した際、現在地である若柴に移されています(旧領である群馬県太田市にも金龍寺は再興されています)。
金龍寺の寺宝である絹本著色十六羅漢像(16幅)は鎌倉時代に制作されたもので当初は蘭渓道隆(鎌倉建長寺開山)に贈られたものが執権北条家、さらに新田義貞の手に渡り義貞が金龍寺に寄進したものとされ大正6年(1917)に国指定重要文化財に指定されています。
現在の金龍寺本堂は天保4年(1833)の火災で焼失後の安政5年(1858)に再建されたもので寄棟、銅板葺、平入、桁行8間、正面唐破風向拝付、境内には歴代新田家の墓碑が建立されています。山号:太田山。宗派:曹洞宗。本尊:如意輪観世音菩薩。
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