結城市: 弘経寺

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概要・歴史・観光・見所

弘経寺(結城市)概要: 寿亀山松樹院弘経寺は茨城県結城市結城に境内を構えている浄土宗の寺院です。弘経寺の創建は安土桃山時代の文禄4年(1595)、結城家18代当主結城秀康が娘の松姫(文禄3年:1594年11月9日早世・戒名:松樹院梅心芳薫大童女)の菩提を弔う為、檀誉存把を招いて開山したのが始まりと伝えられています。

檀誉存把は元々現在の茨城県常総市豊岡町に境内を構える弘経寺の9世住職でしたが、天正5年(1577)に領主である多賀谷氏と当地に侵攻してきた小田原北条氏との間で激しい戦いがあり、その兵火により弘経寺が焼失した為、下妻に逃れ、結城秀康を頼り当地で再興を果たしました(一方、常総市でも再興が図られ千姫の菩提寺となっています)。

慶長5年(1600)の関ケ原の戦いで秀康は徳川家一族として上杉景勝の侵攻を牽制した功により福井藩(福井県福井市・本城:福井城)に移封になると、弘経寺は庇護者を失い一時衰退しましたが、江戸時代に入ると幕府が庇護し三代将軍徳川家光から寺領50石を安堵、さらに慶長年間(1596〜1615年)に学問所である浄土宗関東十八檀林が設置され寺運も隆盛し文政年間(1818〜1830年)には10軒の学寮があったとされます。

又、江戸時代の俳人であり画人の与謝蕪村の縁の寺院として知られ、寛保2年(1742)友人で同門だった砂岡雁宕を頼って結城を訪れた蕪村は弘経寺を拠点として黒梅図、楼閣図、山水図など10幅の襖絵を残しています。

弘経寺本堂は木造平屋建て、入母屋、妻入、桟瓦葺、正面1間唐破風向拝付き、桁行6間。弘経寺開山堂(観音堂)は重層宝形造、銅板葺(下屋庇:銅板葺、正面軒唐破風)、桁行3間、梁間3間、外壁は真壁造り木部朱塗り、左右花頭窓付。

弘経寺山門は入母屋、銅板葺、三間一戸、八脚楼門、外壁は真壁造り板張り、上層部には毛利輝元が徳川家康に献上した釈迦如来坐像が安置、両側には象眼窓、高欄付、「寿亀山」の山号額が掲げられています。弘経寺総門は切妻、桟瓦葺、一間一戸、四脚門。弘経寺鐘楼は切妻、桟瓦葺、桁行2間、梁間2間、外壁は柱のみの吹き放し。

又、境内に安置されている地蔵が僧侶に姿を変え、夜な夜な目の粗いザルで酒、口の小さい徳利で豆腐を買っていたという「のんべえ地蔵」の昔話の舞台にもなっています。山号:寿亀山。院号:松樹院。宗派:浄土宗。本尊:阿弥陀如来。

弘経寺の文化財
・ 絹本著色当麻曼荼羅(1幅)-室町-縦197p,横185p-茨城県指定文化財
・ 絹本著色襖絵(与謝蕪村筆:10幅・縦137.5p,横71.5p)-江戸-茨城県指定
・ 砂岡雁宕の墓-江戸時代-結城市指定史跡

【 参考:サイト 】
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
【 参考:文献等 】
・ 現地案内板-結城市教育委員会

弘経寺:本堂・山門・写真

弘経寺境内正面に設けられた総門と土塀
境内正面に設けられた総門と土塀
弘経寺総門から見た境内奥へと続く参道の石畳み
総門から見た境内奥へと続く参道の石畳み
落ち着きがあり格式が感じられる弘経寺山門(楼門)
落ち着きがあり格式が感じられる山門
弘経寺本堂正面とその前に設置されている石燈篭
本堂正面とその前に設置されている石燈篭
弘経寺境内に設けられた印象的な開山堂(観音堂)
境内に設けられた印象的な開山堂(観音堂)


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