大御堂(旧筑波山神社別当)概要: 大御堂は茨城県つくば市筑波に境内を構えています。大御堂の創建は延暦元年(782)、徳一大師が開山したのが始まりと伝えられています。伝承によると徳一大師が筑波山に登った際、神童が出現し霊地となる岩窟(月輪洞)を指し示し為、そこで修行を開始しました。
暫く修行に明け暮れていると今度は巫女が出現し東日本で最初に造られた山が筑波山で、2つ頂には男体権現(伊弉諾命)と女体権現(伊弉冉命)がそれぞれ祀られていた事などを諭されたそうです。徳一大師は早速この体験を朝廷に報告すると桓武天皇の勅願により知足院中禅寺が開かれ山頂の社殿も再建、大師も130歳で月輪洞で入定するまで当寺を護り続けたと伝えられています。
弘仁年間(810〜824年)には弘法大師空海も入山し月輪洞で修行をしていると再び巫女が出現しその御告げのより千手観音像を自ら彫り込む本尊とすると真言密教の霊場として整備しています。
古代の筑波山神社は常陸国造家である筑波氏が祭祀を司ってきましたが、鎌倉時代に入ると有力御家人の八田知家が常陸守護となり、その子供である為氏が筑波氏の名跡を継ぎ、更に出家し明玄と名乗り中禅寺別当になりました。
以後、八田家の後裔である小田氏(小田城の城主)の庇護もあり寺運も隆盛したようですが詳細は不詳、天正年中に小田原北条氏が侵攻しその兵火により堂宇が焼失、さらに天正18年(1590)に小田氏が没落すると衰微したと思われます。
江戸時代に入ると大御堂は知足院宥俊が中興、更に筑波山は江戸城から見ると北東の方角に当たる為、鬼門鎮護の寺院として慶長7年(1602)に徳川家康から寺領500石が安堵され寺運が隆盛します。慶長19年(1614)の大坂の陣の際には戦勝祈願が行われ、見事念願成就すると益々篤く帰依され三代将軍徳川家光からは三重塔、鐘楼、楼門、神橋などが寄進されました。
貞享3年(1686)に1千石が追加され大御堂の寺領は1千5百石となり最盛期には18支院を抱え300余人の住僧がいて年中昼夜を問わず多くの人々が参拝に訪れ、門前町や筑波山に至る街道の宿場町も大いに賑いました。
大御堂は創建当初から筑波山神社の別当寺院として神仏習合の形態をとっていましたが、明治時代初頭に発令された神仏分離令とその後に吹き荒れた廃仏毀釈運動により一旦廃寺となり、本堂や三重塔など多くの堂宇は破却され仁王門は筑波山神社の随神門、鐘楼は慶竜寺に移されました。
昭和5年(1930)に再興、仮堂に本尊だけが祀られてる状態が長く続き昭和36年(1961)に民家を移築し本堂(木造平屋建て、寄棟、桟瓦葺、平入)としています。宗派:真言宗豊山派。本尊:十一面千手観音。坂東三十三観音霊場第二十五番札所(御詠歌:大御堂 かねは筑波の 峯にたて かた夕暮れに くにぞこひしき)。
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