宗任神社(下妻市)概要: 宗任神社は茨城県下妻市本宗道に鎮座している神社です。宗任神社の創建は天仁2年(1109)、前九年合戦で討ち取られた阿部宗任を家臣である松本七郎秀則が鳥海山麓から現在地に遷座したのが始まりと伝えられています。
中世になると豊田三十三郷幸嶋十二郷の総社として広く信仰され歴代領主である小田氏(小田城の城主)や豊田氏(豊田城の城主)の崇敬社となり社領の寄進や社殿の造営が行われました。
江戸時代に入ると幕府から庇護され慶安元年(1648)には三代将軍徳川家光から朱印地5石を賜り、寛永年間(1624〜1643年)には社殿が再建されています。その後も歴代将軍から社領が安堵され現在でも13状の朱印状が保管され下妻市指定文化財となっています。宗任神社は古くから神仏習合していましたが、明治初頭に発令された神仏分離令により仏教色が一掃され、明治6年(1873)に村社に列し、明治42年(1909)に神饌幣帛供進社に指定されています。
宗任神社の境内は神域だった為、古木、大木が多く平成元年(1988)には名称「アラカシの森」として茨城の自然百選に選定されています。現在の宗任神社社殿は明治12年(1879)の火災で焼失後の明治17年(1884)に造営されたもので、拝殿は木造平屋建て、入母屋、桟瓦葺き、平入、桁行3間、外壁は真壁造り板張り。本殿は一間社神明造り、銅板葺き、外壁は真壁造り板張り。祭神:阿部宗任、阿部貞任。
【 宗任神社と安倍氏 】-※宗任神社の祭神と思われる安倍宗任(鳥海三郎)は朝廷に従った蝦夷の名称である俘囚を束ねる立場だった安倍頼時の3男だった人物で、朝廷の圧政に対抗する為に安倍氏はじめ多くの俘囚が挙兵し反乱を起こしました。当初は地形を熟知していた俘囚方が有利に運んでいましたが、朝廷側は陸奥守の源頼義を派遣するなど次第に攻勢に転じました。
宗任の本拠地である鳥海柵での戦いは熾烈を極め安倍頼時は討死、鳥海柵も落城しました。宗任は俘囚長を受け継いだ兄である安倍貞任と共に厨川柵まで撤退し、最後まで抵抗を続けましたが、貞任が討死し厨川柵が落城すると朝廷方に降伏しています。その後、縁も縁もない伊予国に流され、さらに、筑前国に再配流されています。
以上の事から考えると、鳥海柵で討死したのは俘囚長である安倍頼時だった事から、元々は頼時の御霊が祭られたものの、罪人だった事から許された宗任に祭神が変更になったのかも知れません。
【 参考:文献等 】
・ 現地案内板-下妻市教育員会
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