佐竹寺(北向観音)概要: 妙福山明音院佐竹寺は茨城県常陸太田市天神林町に境内を構えてる真言宗豊山派の寺院です。佐竹寺の創建は諸説あり大同2年(807)に徳一大師が開山したとも、寛和元年(985)に花山法王の発願により元蜜上人が聖徳太子が彫り込んだとされる十一面観音像を祀り開いたとも云われています(院号である「明音院」は徳一大師が名付けたと伝えられています)。
伝承によると花山法王が巡錫で当地に訪れると霊夢に多くの神の化身が立ち「この地は日本武尊が天神七代の御霊を勧請し国家安寧を祈願した霊地なので寺院を設けて祈ってほしい」との御告げあったと伝えられています。
保延6年(1140)、源昌義(源頼家の子源義光の孫、佐竹氏の祖とされる人物)は観賢上人に帰依し佐竹寺を代々の祈願所と定めると寺領300貫を寄進するなど庇護しました。又、昌義が佐竹寺の境内で二十尋に一節しかない奇竹を発見し、出世の前兆と感じ取り佐竹氏を名乗った事から佐竹氏発祥の地とされています。
その後、一時衰退しましたが、文永6年(1269)に佐竹長義が堂宇を再建するなど再興しています。佐竹寺は当初、洞崎の峰観音山にありましたが天文12年(1543)兵火により焼失、天文15年(1546)に18代佐竹義昭が居城である太田城(茨城県常陸太田市中城町)の裏鬼門除けとして現在地に再建し、本堂は太田城の方角である北向き建てられた事から北向観音とも呼ばれました。
佐竹氏は常陸の雄として勢力を強め北関東から南東北へ大きな影響力を持つようになり当寺も寺運が隆盛し六支院、三ヶ坊を抱える大寺院になったものの、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで佐竹氏は東西中立を保った為、慶長7年(1602)に久保田(秋田県秋田市・本城:久保田城)へ移封となり当寺は庇護者を失い一時衰退します。
江戸時代に入ると佐竹寺は水戸藩(藩庁:水戸城)から庇護、寺領17石を安堵され延享年間(1744〜1748年)に選定された領内(水戸藩)三十三観音霊場第11番札所と鎌倉時代に選定された坂東三十三観音霊場22番札所だったことなどから広く信仰を集め賑わったそうです。
明治時代初頭に発令された神仏分離令とその後に吹き荒れた廃仏毀釈運動により佐竹寺は衰微し昭和初期までは無住時代が続きましたが昭和24年(1949)に再興しています。山号:妙福山。院号:明音院。宗派:真言宗豊山派。本尊:十一面観世音菩薩(伝:聖徳太子御作、花山天皇の念持仏)。坂東三十三観音霊場第22番札所(御詠歌:ひとふしに 千代をこめたる 佐竹寺 かすみがくれに 見ゆるむらまつ)。水戸三十三観音霊場第11番札所。佐竹七福神霊場:布袋尊。
佐竹寺・文化財: 現在の佐竹寺本堂(往時は観音堂だったとも)は天文12年(1543)に建てられたもので木造平屋建て、寄棟、茅葺、平入、桁行5間、梁間5間、こけら葺の裳階付、正面唐破風向拝、花頭窓や丸窓、外壁は真壁造り板張り。
内部の内陣の床は瓦で敷き詰められ中央の聖域を象徴する来迎柱の間には須弥壇が設けられ、本尊である十一面観音像と脇侍である不動明王像と毘沙門天像が安置、組物や工法、平面構成など桃山時代の寺院本堂建築の遺構として大変貴重な事から明治39年(1906)に国指定重要文化財(旧国宝)に指定されています。
佐竹寺山門は昭和15年(1940)に再建されたもので入母屋、桟瓦葺、三間一戸、桁行3間、張間2間、八脚楼門、高欄付き、外壁は真壁造り板張り木部朱塗り、左右には宝永年間(1704〜1710年)に製作されたと伝わる仁王像(右側:阿形像・左側:吽形像)が安置され軒下には佐竹家の家紋「五本骨扇に月丸」と「妙福山」の山号額が掲げられていいます。
明治時代初頭に発令された神仏分離令以前の佐竹寺の鎮守社だった稲荷堂は豊川稲荷(円福山豊川閣妙厳寺:愛知県豊川市豊川)から茶吉尼天の分霊を勧請したもので、一間社流造、木羽葺、社殿の前には複数の陶器製の白稲荷が奉納され信仰の篤さが窺えます。
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