馬場八幡宮

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概要・歴史・観光・見所

馬場八幡宮(常陸太田市)概要: 馬場八幡宮は常陸太田市馬場町に鎮座している神社です。馬場八幡宮の創建は天喜4年(1056)前九年合戦の折、源頼義がこの地を訪れ石清水八幡宮(京都府八幡市)の分霊を勧請して戦勝祈願したところ見事念願成就、感謝の意を込めて康平3年(1060)に社殿を造営したのが始まりと伝えられています。永保3年(1083)には後三年合戦の際には源頼義の子供である源義家が馬場八幡宮に参拝し戦勝祈願を行い、またもや勝利すると寛治6年(1092)に流鏑馬を奉納しています。

【 馬場八幡宮と佐竹氏 】-その後、義家の弟である常陸介新羅三郎義光はこの地に配されると、天仁2年(1108)に当時の太田城の城主である藤原通延に命じて馬場八幡宮の社殿の修築を行わせています。孫の昌義の代で佐竹氏を名乗り(昌義は佐竹寺の境内に二十尋に一節しかない奇竹を発見した事から吉兆と悟り、佐竹姓に改めたとされます)、馬場八幡宮を代々の崇敬社と定めると太田郷総社として庇護し、特に3代佐竹隆義は応保元年(1161)に本社・殿堂・楼門・神宮寺・庁屋を造営しています。

佐竹義宣の代で太田城から水戸城(茨城県水戸市)に居城を移した際には馬場八幡宮の分霊を勧請し水戸八幡宮を創建しています(佐竹氏は関が原の合戦後に秋田へ移封となり居城である久保田城内に八幡宮の分霊を勧請しています。因みに久保田城の支城である大館城には若宮八幡宮の分霊が勧請されています)。

【 馬場八幡宮の江戸時代 】-水戸藩2代藩主徳川光圀は水戸藩独自の神仏分離や社寺統合を図り、佐竹氏時代の領内に八幡神社は105社鎮座していたものの、この政策により101社が廃社に追い込まれ、馬場八幡宮は残された4社(安良川八幡宮・水戸八幡宮・若宮八幡宮・馬場八幡宮)の内の1社だった事から特別視された事が窺えます。ただし、太田郷総社から馬場町、増井町、上大門町、下大門町、新宿町(一部)の総社と格下げとなり、別当寺院だった極楽寺は廃寺に追い込まれています。明治時代初頭に発令された神仏分離を経て村社に列しています。

【 馬場八幡宮の社殿 】-現在の馬場八幡宮本殿は天正2年(1574)の落雷で焼失後の天正8年(1580)に佐竹義重が家臣である中坂少将義人に命じて造営した時のもので、三間社入母屋造、銅板葺(元こけら葺)の身舎、三間社流造、桁行3間、梁間2間、銅板葺(元こけら葺)、正面3間向拝付、内部は神仏習合時代の名残と思われる内陣、外陣と別れている構成、棟梁は石橋右馬之助、吉原修理充などが手掛けています。馬場八幡宮本殿は当地方の桃山時代の神社本殿建築の遺構として貴重な事から平成12年(2000)に常陸太田市指定有形文化財に指定されています(附:天正8年銘棟札)。

馬場八幡宮拝殿は木造平屋建て、寄棟、鉄板葺き、平入、桁行6間、梁間3間、正面1間軒唐破風向拝付き、外壁は真壁造り板張り、向拝懸魚には神亀の精緻な彫刻、向拝中心には「八幡宮」の社号額、棟飾りには佐竹家の家紋「五本骨扇に月丸」が掲げられています。神社山門(随神門)は切妻、銅板葺き、三間一戸、八脚単層門、桁行3間、張間2間、外壁は真壁造り板張り(正面1間分は柱のみの吹き放し)、左右には随身像が安置。

馬場八幡宮には社宝も多く、古瀬戸瓶子(1個)と青銅製扇面(1個)が昭和48年(1973)に常陸太田市指定文化財に指定されています。祭神:誉田別命。配神:息長足比当ス、比淘蜷_(市杵島比当ス・湍津比当ス・田心比当ス)。

【 参考:文献等 】
・ 現地案内板-常陸太田市教育委員会

馬場八幡宮:本殿・随身門・写真

馬場八幡宮の木製明神鳥居、石造社号標、忠魂碑
木製明神鳥居、石造社号標、忠魂碑
馬場八幡宮の参道と神社山門
重厚な石造参道と神社山門
馬場八幡宮の神社山門から拝殿眺め
神社山門から見た拝殿の眺め
馬場八幡宮拝殿を右斜め前方から眺め
拝殿を右斜め前方から見た眺め
馬場八幡宮本殿を右斜め前方から眺め
本殿を右斜め前方から見た画像


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